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宇江佐真理「おちゃっぴい」表題作は杉浦日向子「百日紅 巻3ノ2−愛玩」の剽窃にあたるか。問題

ある作品が盗作か、はたまたオマージュか、
その境はどこにあるのか。
というようなことを考えるきっかけが
mixi杉浦日向子コミュの某トピックで最近あって
興味深かったのでいろいろ調べてみました。

と、早速
山下達郎のラジオ番組(2000年4月)中に
秀逸な定義を発見。

要するに盗作かどうかは、どれだけの必然性があるか、
(略)元から持って来たものより質的にオーバーしていれば
それはパクリとは言われない。
全然違う曲なのに、どこか色合いが似通っている。
これがロックです。
こういうのは褒められる。必然性があるんですね。


たしかに。
ロック、とありますが分野を限ったことではなく
たとえばTVアニメ「クレヨンしんちゃん」6代目主題歌
「とべとべおねいさん」。
この曲が「勇者ライディーン」を下敷きにしている、
とはよく言われること(のよう)ですが
盗作よばわりされることは、あまり無い(よう)です。

それは、「おねいさん」が「勇者」を
質で凌駕しているから、というよりは
「おねいさん」の「勇者」への
強い愛があるから。

つまり、
質/愛
この2つの切り口で考えれば
盗作とオマージュの境界は見えてくるのではないか。
たぶん。

そこで宇江佐真理の「おちゃっぴい」に話を戻せば

■質
その後の宇江佐真理からすれば確かに若書きではあるが
作品としての出来はまあ水準。ただ、
杉浦日向子作品とは、残念ながら比ぶべくもない。
なにしろ先方は史上屈指の名作ですからね。

■愛
自分の金儲けのために、世に広く知られていない漫画作品を
自分の小説として発表した。と見るか
自分が愛している原作世界に近づきたくて、
ノベライズに近い気持ちで発表した。と見るか。

どちらかというと後者を採りたい、という根拠は
宇江佐真理自身、
自作「酔(え)いもせず」をふりかえって−
というインタビュー機会に
次のように答えていること。

杉浦日向子さんの漫画『百日紅(さるすべり)』や、
皆川博子さんの『みだら栄泉』を読んで、
そこに描かれたお栄という人物に惹かれるようになったのが
最初のきっかけですね。
(文藝春秋「本の話」)

また、エッセイ集「ウエザ・リポート」ではさらに直截に

漫画は小学生以来読むことはなかった。しかし、
杉浦日向子さんの作品に限ってはほとんど読んでいる。
それは漫画を楽しむということより時代考証の参考にする
という意味合いが強かった。
(略)
江戸の資料は山のようにあるけれど、江戸の風情は言葉で伝わり難い。
杉浦さんはそれをビジュアルに(原文ママ)私に教えた人だ。
『百日紅』の葛飾北斎、その娘お栄、渓斎英泉のからみなど、
こたえられないほどおもしろかった。

とあること。
(ちなみに上記一節はGoogleブックスから引用w)

つまり、「おちゃっぴい」表題作を
完全オリジナルだと言う気は
まず間違いなく宇江佐真理本人には無く、
また、杉浦日向子への愛を
感じることも可能。

とすれば「盗作」と呼ぶのは酷で
せいぜいが「失敗したオマージュ」
と見てあげるのがいいのでは、
というのが私の一応の結論なのでした。

宇江佐の作品を読んで思うことは2点あって

1.杉浦の作品でそぎおとされていた
“落とされて然るべき情報”が付与されてはいるものの
あきらかに同じ世界を描いている、ということ。
2.そして、あえて同じ世界を描くだけの
作品としての(山下達郎のいう)“必然性”は
感じられない、ということ。

……でもさー。
これ、本当に「盗作だ!」と
責められるほどのものなのかなあ。

杉浦ファンとしては結構年季入っているつもりだけど
宇江佐真理はもう読みません」的な反応にはならない私。

それは、
正義漢の正義感
とはあまりにカケ離れたところに
自分自身がいるから、ということなんでしょうか。
わからんですな。