読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

編集者が編集するのは本だけじゃない! ○○もだ!

ウェブも電子書籍もDVDもCDも編集しちゃうよでもいちばん仕事多いのはけっきょく紙

原作に心酔していた作品の映像化、で思い出すこと

小説の映像化って
とくに和モノの場合
基礎となる演技が痒いので
いっそ実写でないほうがいいです派なんですが
それは必ずしも演者だけが
責任を負うべきものでもなく
なんでああもセリフまわしが
「芝居がかっちゃうかねえ」とかさ。


映像化されることで
原作とは違うメディアならではの魅力を
引き出されて
おお。
ってなることはあるとして
(と言いつつ具体例が思い浮かばない)
(ああ、ボーン・アイデンティティー的な?)

小説が読者に提供した官能
これは間違いなく文字メディアならでは。
と確信を持っていた
まさにそのシーンを
原作と同じ方法論で映像化して
それでいて
原作を超えた感情を
引き起こした作品って
個人的には過去ひとつしか
経験してないんですよね。


デイヴィッド・ベニオフの原作を
25時 (新潮文庫)
スパイク・リーが映画化した
「25時」(2002)。
25時 [DVD]
これ、エピローグが
モノローグな作品なんですけど。

メディアとしての特性上
行間にどれだけの思いを込めるか、は
読み手にゆだねることができるのが
小説の強みで

そこまでの話のナリユキに
踊らされている私なんざ
万感胸に迫っていて
ちょっと突いたら
涙腺崩壊の状態なのに
だからって
そこで朗々と歌い上げられたら
ヒくわー。それはナイわー。
って言い出すに決まっている、
非常にうるさい観客なわけです。

だけど
そんなわがままな観客に合ったスタイルを
作者に代わって創造することができるのも
小説ならではで
つまり、そのシーンを読んでいる私の
脳に聞こえてくる「声」は
代替不可能な、唯一無二のものとして
存在する。


ね。
そういう作品を映画化して
いくら主人公が
名優エドワード・ノートンだからって
(ちなみに既に
 「アメリカン・ヒストリーX」(1998)
 「ファイト・クラブ」(1999)
 を経た後、フリーザでいうと
 最終形態に変身済ノートン)

才人スパイク・リーが撮ったら
いかにもな感じになっちゃうんじゃ?
と油断しながら見始めたんです。

そうしましたら
ええ、スパイク・リーって
職人芸に徹することもできるのかい?
と意外なまでに
原作に忠実な仕上がりに驚いて
最後の最後
エピローグが始まったときの、あの
……ううん。
どうなんですかねえ。

10年前、文字通り放心してしまうような
体験を映画館でして以来
いまだに一度も
(その感動を壊したくなくて)
見直してないんですけど
いま、もし再見しても
あのとき受けた衝撃を
感じるのでしょうか。

ひょっとしたら
たまたまそのときのムシの居所のせいで
むやみに情感が動いてしまった「だけ」で
原作以上のものが
恒久的に映像作品に在るわけでは
実はない
の・かも・しれません。

だとしても
「原作と同じ手法で映像化して
 小説を超えることもできるんだ、
 映画って」
という衝撃は
10年たった今も、薄れることなく
私の中に残っているんですけどね。