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キャーン・チエホフスキー氏6年ぶりの復活

「姓名は?」と女下士官が訊ねた。
木山捷平
 すると、女士官のそばに控えていた男の兵士が、キャーン・チエホフスキー、と大きな声で叫んで、私の名前を召集台帳に記入した。むろんロシヤ文字でである。ずいぶん桁はずれな誤訳のように思われたが、私は訂正は申込まないで、兵士が書き終るのを待つと、
「生年月日は?」と女士官が訊ねた。
「一九〇四年」
 と、こんどは私の方で気をきかして、西洋紀元に翻訳して答えると、女士官は五尺一寸たらずの私の貧弱な体躯を改めてじろじろ見ていたが、何がおかしいのか、にこっと笑って、
「どうも、御苦労さま、すぐ、お帰りなさい」
 と、流暢な日本語で最後の判定をくだしたのである。
 と同時に、控えの男兵士が「ニエット」と、もう一度大声で叫んで、「落第」のようなしるしを、召集台帳に記入したのである。「ニエット」というのは不合格、または即日帰郷という意であるように思えた。
 で、私は、(ロシヤ語に翻訳すれば、キャーン・チエホフスキー氏になるところの私は)低い鼻の穴をひくひくさせながら、大急ぎで、校門を出た。とはいえ、駆けたりすれば、どんな拍子で風向きが変らないとも限らない。相手は不可侵条約を反故にした現実国のことである。で、なるべく悠然と歩きながら、しかし私は、さすがにソ連の軍部は日本の軍部より人道的であり、明治天皇サマの聖旨にも添っているように思えた。個人的には、どうもあの女士官は、何となく私の気に入って、できることならもう一度ひきかえして、世間話がしてみたいような衝動にかられた。せっかく、汗水たらして覚え込んだロシヤ会話がつかえなかった残念さの、反動だったかもしれない。
     -「耳学問」

このほど講談社文芸文庫が11冊目の
木山捷平作品集(「落葉・回転窓」)を刊行し
巻末解説で岩阪恵子もこれを
「他の作家とくらべても断然多いほうである」
と書いているとおり
実にめでたいことなのですが
愛読者歴も25年を超えると
舅根性というか、老爺心というか
細かいことが気になりまして。

つまり、11冊目と言うものの
巻末の目録には
「白兎|苦いお茶|無門庵」C3
井伏鱒二|弥次郎兵衛|ななかまど」C4
木山捷平全詩集」C5
「鳴るは風鈴」C9
「大陸の細道」C11
「落葉|回転窓」C12
の6タイトルしか掲載されていないんですよ。

まさかと思うけど
「氏神さま|春雨|耳学問」C2
「おじいさんの綴方|河骨|立冬」C6
「下駄にふる雨|月桂樹|赤い靴下」C7
「角帯兵児帯|わが半世記」C7
長春五馬路」C10
この5タイトルは絶版なの?
  C7がふたつあるのは版元の誤植であって
  私の誤記じゃねーす


講談社文芸文庫というレーベルが
立ち上げられた際には
「後世に伝えるべき作品を」
「絶版や品切れにしないため」
お高い価格で販売するんです、というような
大義名分が喧伝されていたので
うっかり信じていたのですが

新刊とあわせたタイミングで
「大陸の細道」が
C11として復刊された様子を見て
あ、つまりC1の「大陸の細道」は
絶版になっていたってことかーーーっ!!!
と気づいてしまったので
11冊目だわーい!
と素直に喜んでばかりもいられないのでした。

なお、C11には
講談社文芸文庫スタンダード」という
名称が付されているようですが
それって今東光の「悪名」が映画化されて
「続悪名」
「新悪名」
「続新悪名」
「第三の悪名」云々と続いたようなものですか、
なんにせよ趣味悪いですね。

さて。
6年ぶりとなる文庫新刊「落葉・回転窓」
冒頭「村の挿話」を
一読して思ったのが


この作者を語る際に
判で押したように使用されるキーワードは
ユーモア
ローカリズム
ヒューマニズム
あたりで

もちろん「村の挿話」には
そのいずれの要素も色濃く刻まれているのですが
もっとも強く印象づけられたのは
そういう“良い系のことば”ではなく

文筆業を営む人間ならではの
太宰治井伏鱒二に甘えて書いたフレーズにもありますが
ああ、この作家は
「悪い人」だなあ、と
いうことでした。

ユーモアには苦みが必要だし
ローカリズムを自覚するには
最低一度は井戸の外に出る必要があろうし
ヒューマニズム(=人間主義)ということばも
(「ヒューマニタリアニズム[=人道主義]」ではない以上)
人間、この素晴らしくもドイヒーにもなり得る生き物、
というフラットな視点がなければならん。

たとえば好々爺然とした写真、
たとえば代表的な詩作「ふるさと」

  五月!
  ふるさとへ帰りたいのう。
  ふるさとに帰って
  わらびとりに行きたいのう。
  わらびとりに行って
  谷川のほとりで
  身内にいっぱい山気を感じながら
  ウンコをたれてみたいのう。
  ウンコをたれながら
  チチッ
  チチッとなく
  山の小鳥がききたいのう。

こうしたイメージから、
愛読者を自認する私ですら
油断すると
  気のいい爺さん。
と単純化してしまいがちですが
そんなもんじゃないよ、
キャーン・チエホフスキー氏ってのは。
という思いをあらたにしたわけです。

多くのひとの目にとまるといいねえ。

落葉・回転窓 木山捷平純情小説選 (講談社文芸文庫)

落葉・回転窓 木山捷平純情小説選 (講談社文芸文庫)