韓国で「火車」がヒットしてると聞いて見てもいないのに見てきたかのようなレビューを書いてみるてすつ。
「火車」韓国版が成功したのは
土地や時代などのローカルな要素を削ぎ落していく過程で
物語の骨格を再抽出した脚本になったことが挙げられるのではないか。
なぜ彼女はそうせざるをえなかったのか−を追ううち、
「特異な環境にあった女性の」
「特異な物語」
ではなく
誰にでも訪れるかもしれない
(あなたの/私の)
物語であることを
失踪した婚約者を追う男性とともに
観客はゆっくり理解していくことになる。
原作者の母国、日本における映像化作品
−たとえば佐々木希版−を想起すれば
今回の映画化がいかにチャレンジングであったか、が分かる。
原作における最大のギミックを忠実に再現した、という点で
たしかに上述日本版は
「誠実な仕事」ではあったかもしれない。
だが、誠実である以上にチャレンジングな試みで
原作が読者に見せたのと同じ地平を
はじめて宮部みゆき作品に接するひとたちに見せた、
韓国版スタッフの仕事は(どれだけ安めに見積もっても)
評価に値する、といえよう。
あたし、ただ幸せになりたかっただけなのに ─ 宮部みゆき『火車』
超常能力や江戸時代など、舞台を特異なものに設定しても
宮部みゆきが一貫して描き続けている
「ただ幸せになりたい」あなた/私に
訪れた・かもしれない物語。
それは、舞台が日本から韓国に変わっても
変わらず、見る者の胸に届いたのだ。