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小説の果たす役割を思う。奥田英朗「沈黙の町で」


新聞の朝刊連載、という形態で400数日にわたって続いた
奥田英朗の小説「沈黙の町で」。


あと2回で完結する、というタイミングで
こうしてなんか書こうとするのは
とりあえず最速レビューの座を手に入れようという魂胆がバレバレ
……ですけど……ですけどっ、これはこれでいいのっ。
円環を最後に「閉じる」のが作品のエンディングなのね、ははーん。
と分かるように作者も書いてるから
驚くような何かが残っているわけではないから。たぶんだけど。


新聞連載という媒体で
現実が小説を模倣した金字塔としては
宮部みゆきの「理由」を真っ先に挙げたい私ですが、あれは
占有屋という社会の異物的存在を物語の中心に据えることで
「知らなかった!」という鮮やかな驚きをもたらす作品でした。


一方、学校でのいじめという“古びた”素材を扱って
淡々と1年にわたって話を積みあげるうち
人が注目せざるをえないような現実の事件が
「あらためて」起きてしまった、のが
奥田英朗の「沈黙の町で」。
「思いあたるフシ、あるだろぉ?」
ねちねちと400数日かけて迫られる、そんな作品でしたね。


事件にニュースとして接していると
簡単に同情したり
簡単に憤慨したりできるけれど、それはまた
簡単に忘却できる、ということでもある。


学校ってば
広義には密室と呼んでいいような、閉ざされた空間なので


  加害者がどういう人物だったか
  被害者にはどういうバックグラウンドがあったか
  その親は、兄弟は、親戚は。
  そのとき学校の教師は何をしていたのか。
  組織としての学校を代表する校長は?
  警察はどういう調査をしたのか、
  新聞記者は何を思い、どう報道したか、
  事件が起きるまで、好むと好まざるとに関わらず
  同じ密室空間に居合わせた「その他の生徒たち」は
  何をどう思っていたのか。


リアリティーを追及する手法では
カバーできないことがある。


フィクションならではの想像力を駆使することで
たとえば
被害者・加害者の母親の視点とか
必ずしも傍観していただけではなかった、と
自分のことを思っている同級生の視点とか


「ニュースを摂取するだけの立場」だと気付かないような
自分だって完全な無関係ではいられない「やりきれない気持ち」
−またはその残滓−がしつこく残る。
ああ、これが小説の力ってものなんだな、と思わされた
奥田英朗「沈黙の町で」。


いまこそみんな読め。いますぐ読め。
(=緊急電子書籍化、とかやればいいのにねえ)