フリーランスとして生きる@幕末
1943年に週刊朝日で連載された「天狗倒し」
および
1945年6月〜10月に東奥日報、佐賀新聞ほか地方紙で連載された
「鞍馬天狗敗れず」
という2作品は
生麦事件(1862年8月)直後からのおよそ半年間の横浜を
フリーランスのジャーナリストを追うことで
浮き彫りにしようとする試みです。
ええ、ここでいうジャーナリストとは当然
鞍馬天狗のことなのですが。
作者・大佛次郎によってこの世に生を受けた時点(1924年)では
鞍馬天狗なる人物は、まあひいきめに見ても
右傾したテロリストというほどの存在でした。
ご存知ない方のために申し上げると、
尊王・反幕府というのが
鞍馬天狗に課せられたアイデンティティー。
作者の筆が練れてきて
作中人物が自ら書割的な存在を脱するにつれ、
徐々に鞍馬天狗は
「劣勢のなかでも信念を貫く尊王の志士」
↓
「数を恃む新撰組にたった独りで立ち向かう好漢!」
↓
「反幕府とか薩長とかではなく、アンチ公権力なのが俺だ」
↓
「可能なら腕力以外の方法で目的を達したい」
という具合に
立ち位置を変えていきます。
いわゆるチャンチャンバラバラ・アイコンとしての鞍馬天狗、は
そういうわけで、原作においてはほぼ最初期にしか登場しません。
「天狗倒し」「鞍馬天狗敗れず」という
40年にわたって書き続けられたシリーズ中の
19年目、21年目に書かれた作品においても
−したがって−ほとんど剣戟シーンはありません。
剣をとらず何をしているか? というと
もっぱら考えている。
作品で描かれている生麦事件とは
グローバルなオポチュニティにコミットすることになった日本という国家が
ビギナーらしい右往左往を重ねているの図、でして。
主人公たる鞍馬天狗は“本来なら”
煮え切らない幕府の対英国方針に業を煮やし
痛快なナニゴトかをおこなうべき・なのでしょうが
なにぶんフィクション上の人物ですので
正史を変えるようなことをしてはいかん、
という足かせを
あらかじめ作者によってハメられています。
ですから、じりじりしながら、
鞍馬天狗一個人としてはこうあるべきだという考えを抱きながら
あっちの現場に潜入して事件を目撃したり
こっちの現場で直接キーパーソンに単独インタビューを試みたり(ノーアポで!)
結局、行動したくて仕方がないキャラなのに
考えるしか、やることがない。
ジャーナリストが
彼/彼女の目に映る事象を伝えるとき
「個人の見解」とは別に
新聞記者だとか、報道部のなんとか、だとか
所属する団体によって
当人が自覚しないまま
なんらかの予断が込められてしまうことってあるよね。
とは、ソーシャルネットワーク全盛の昨今になって
ようやく周知されてきたことだと思うのですが
鞍馬天狗という人物の面白さは
一貫してフリーランサーな点にあります。
薩摩藩なり長州藩なりというスポンサーは背景にあるのですが
雇用上はあくまでもテンポラリー・スタッフ扱い。
ちなみにオフィスもありません。
幕府が、とか
薩摩藩が、という立場を離れて
考えるひととして、状況を伝える
渾身の「生麦事件のころの日本レポート」。
いま読んでも面白いと思います。
……というか、面白かったんです。
あーまあ小説としては、終盤ばたばたっとするのでキズがないわけではないんですけどね