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47.地獄太平記

初出:1965年河北新報ほか
参照:徳間文庫版上下巻(1988年12月、解説磯貝勝太郎)
時代設定:1865年3月〜1866年6月
 「川向うに、製鉄所とかが出来るそうでチムネが立ちました」(=横浜製鉄所開設は1865年8月)
 「藤はようやく枝に芽をつけたばかり」


牢獄から公権力のヒモ付きで出された男が
課されたミッションクリアに奔走するうち、
隠された真実に近づく!


という、時代を江戸幕末に設定したハードボイルド謎解きものです。

何者かに誘導されている気がして落ち着かない脱獄囚、
その模様をたまたま目にした探偵(=鞍馬天狗)は彼のあとを追って横浜から兵庫へ。
「犯人」像が非常に魅力的に描かれていて、
たとえば全12章のうち探偵が出てこないのは1章だけなんですが、
その1章が強力なあまり、読後に
「主役の登場頻度が少ない作品」という印象さえ与えてしまうほど。


青貝屋十兵衛を名乗っている探偵こと、鞍馬天狗の本質が
ジャーナリストであることは以下のような述懐からも自明です。

 私は役人でもない。別に誰からも頼まれたわけでもないが……自分の目の前で、道理をなっとく出来ないことが行われて、それが、あまり善からぬ動機から出ているように考えられると、黙って見て過ごせぬ性分らしいんだな。なんのことか、確かめてみたいのだ(略)知らぬ振りをして済ますより、損得はぬきで、自分がいつも、気になるようなものを持たずに、からっとした気分でいたいんだな。

この「からっとした気分でいたい」という意志表示は
(ジャーナリストが自己を規定する宣言として)稀有なものではないか。
あるいは、彼のことばを受けて答える盟友のことば。

 「だが私は御承知のとおり、自分の気の向くことでないと、無精でなにもしない。お役に立たぬかも知れませんね」
 「それで、よかです」
 西郷吉之助は、ゆったりとした態度で、にこりとする。
 「(略)あんたのほかに適当なおひとが考えられなかった。みんな、紛争の場所へ行くと、のぼせてしもうて、見ているようでなにも見ておらぬ。物は公平なおひとにだけ、正体、ほんとうの姿を見せるものらしいのだ」

鞍馬天狗はジャーナリストとして江戸末期に潜入した現代人だった、
という仮説を気に入っている私ですが
この作品で「事件の現場」に突入していくのは、冒頭でも述べたとおり
彼ではなく大伝馬町の牢舎を脱獄してきた罪人、本荘長太夫です。

鞍馬天狗はあくまでも長太夫の跡を追うだけで
たとえば物語後半のクライマックス、幕府による長州征討においても
当事者として参加することは叶いません。
フィクショナルな人物ゆえ、常に歴史を「傍観せざるをえない」彼は
言います、「からっとした気分でいたい」。

現代のジャーナリストたちが、どうも
たしかに傍観はしている・けれども
まるで「からっとした気分」でいることが無いように
私には思えてならない。
そんな現実との対比に思いを馳せたくなります。

あ、そうそう、坂本龍馬もなかなかそれっぽい横顔で出てきます。
作者が41年の長きに渡って書き綴って来た、鞍馬天狗シリーズ
全47作の掉尾を飾るにふさわしい雄大な長編といえるでしょう。