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43.深川物語


初出:1957〜59年家の光
参照:中公全集(9)(1961年1月)
時代設定:1866年10月
 「城主は、老中となって江戸に出ていたのでしたが、伊賀伊勢三十二万石の政治は、城代家老が中心になって、平穏におさめているわけでした」
 (=藩主藤堂家から老中は出ておらず、備中松山藩板倉勝静が老中と「伊賀守」に任ぜられた時期をイメージしたものか。とすると1865年10月以降)
 「江戸に出て、芝三田にある薩摩屋敷を根城にして、積極的に幕府方に挑んで正面からの衝突を準備する。今度の使命は、こういう重大なものだったので...」
 (=薩摩藩の状勢としては1865年よりは1866年により近い)
 「日が暮れると、この草津の宿も秋の虫の音につつまれます」
 「今夜は十三日の月があって、両側の人家にはさまれて細長く続く街道を、明るく照らし出しています」


薩摩藩の要請で京都から江戸へ向かう鞍馬天狗、という話ですので
草津に始まって
鈴鹿峠を越えて津、桑名、名古屋
あるいは下田、三島とさんざん舞台は移るものの
タイトルに掲げられている深川は……? とか
因州浪人、海野惣吉と名乗ったかと思うと
倉田典膳と申して生国は九州で、と言ってみたり
なんだか、ひとつひとつのピースがしっくりハマらない感があるんですよね。


・肩の凝らぬ読物にするように考えた
・単行本に出さないで、今まで蔵ってあった
・娯楽だけのものと考えていただきたい
・だいたい、戦後の鞍馬天狗は、抵抗したくなる敵を現実社会に失くしたので、
 力の入れどころに困ったらしく見える

ってオイ! とツッコミ入れたくなるような評が本作に関しては既に存在して
誰やねんそんなコト言うとんのは。
と思えばこれ、作者自身によるあとがき。
……どうも、挨拶に困りますね。


そんななか作品を救う活躍を見せるのが
「11.角兵衛獅子」で鮮烈なデビューを飾って以来
既にシリーズ出場30年となる子役(=なんか変だ)
杉作。

 「おいら、鞍馬天狗先生なら、どうするかって考えてみるのだ。先生のように、いざとなっても相手を怖れないし、臨機応変に何でもできるっていうのでないのが困るんだ。それだけだよ。」

ええと、すみません、少年、意外に年イッてんじゃね、という無用な疑惑を
招きかねない口調のセリフを抜いてしまいました。

杉作ついでに触れておくと
鞍馬天狗が杉作に「日本の夜明けは近いぞ」云々、という
妙に知名度の高い発言は原作にはありません。
11.角兵衛獅子」のなかに、それに近い印象を残すシーンがあって
ちょうどそこが上で引いた箇所より、よほど「正しい杉作っぽい」ので、
引用します。

 「帰ったら西郷さんに言ってくれ。鞍馬天狗はめったに死なぬ。たとえ殺されても、何度でも生き返って来る……とな」
 と、はれやかな言葉です。でも、一度殺された人が、そう何度も生き返って来られるでしょうか? 鞍馬天狗は、そのように言っています。杉作は、この小父さんが滅法強くて偉いのだとは信じていますが、それだけは、どうも変だと思いました。死んだ人は幽霊にでもなって来るよりほかにこの世に出て来られないはずではありませんか。
 「小父さんは、死んでもお化けになって出て来るのですか?」
  (略)
 「お化けや幽霊などというものは、話だけでほんとうはいないのだ。だから、なろうと思ってもなれるものじゃない。小父さんが殺されても生き返って来るというのは、たとえ小父さんが死んでも、小父さんのように世間のために働こうという人が、これから幾人でも出てくるということだよ。だから小父さんが死んでも心配はないというのさ」

ひとことでいうと「おぼこい」のが杉作少年であって
もっぱら鞍馬天狗が自説を噛み砕いて説明する聞き役として
彼は登場したのでした。


ですから、ストーリーの上では、おおむね
分かったような生意気な事を口走ってみたり(「42.女郎蜘蛛」)
特に用も無いのに友情出演的に顔を出してみたり(「47.地獄太平記」)
最悪の場合には鞍馬天狗の足を引っ張ったり(「14.山岳党奇談」)
だいたい、そんな感じに留まることこそが本領なのに
本作においては、シリーズ中で随一ともいえるほど
(天狗顔負けの!)実行力を披露します。


鞍馬天狗がいわゆる「鞍馬天狗像」を懸命に演じるあまり
動作のいちいちが大仰になっている・ように見えなくもない状況と
頑張りすぎやろ杉作、という状況をあわせ考えるに
本文中のどこかに
主役急病につき代役が皆様のお相手務めさせていただきます、
という貼り紙があって
私がそれを見逃しているだけなのか?
……そんな印象が残る中編です。