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39.夕立の武士


初出:1954〜55年サンデー毎日
参照:徳間文庫版(1989年9月、解説石井冨士弥)
時代設定:1864年3月
 桂小五郎の愛人だった幾松が、遅れて、たったいま、外からはいって来たところだった
 (=1864年、禁門の変以前)
 「八分ばかり咲いた桜の花を見上げて」


比較的すいている通勤電車で
サラリーマンふう若者と学生ふう若者がマンツーマンで一触即発になっていたのを
遠目に拝見。


前者が乗車時、自らつまづいたのを
その直後に乗り込んだ後者の悪意と勘違いして睨み合い!
みたいな状況だと思ったのですが
残念ながら、すぐ次が私の下車駅だったんで
あれからあのふたりどうなったかしらねええ(←おばさん風味

そんな日常の光景を持ち出してみたのは
ひとそれぞれに「感情スイッチ」ってあるけど
どこを押せばスイッチがONになるのかはあまりに千差万別だから
人生予断を許しませんね、という感想が
夕立の武士」の −作品そのものではなく− 読後感を連想させたからです。


(シーンA)
ヘッドハンティングされる鞍馬天狗
・その場で断っちゃう
・断られたことで「怒りスイッチ」が入る先方

(シーンB)
・俺が誰だか知ってその態度か、と上から言う先方
・いやすみません誰ですか、と答える鞍馬天狗
・そこで「怒りスイッチ」ONNNN!

(シーンC)
・誰だお前、と聞かれて「鞍馬天狗ですけど」と答えたら
・何だお前、フザケんな舐めてんのか! とそんなところに先方の「怒りスイッチ」が!
・ごめんちょっと自分が有名かと勘違いしてた、と平謝る鞍馬天狗

それにしても、ですよ。
そんなにすぐ(怒りに限らず、感情の)スイッチって入っちゃうもの?
それとも
喜怒哀楽の怒だけが浅いところでON/OFFできて
楽とか喜はもっと深く押さないと起動しないものなんですか。

ええ、かくいう私は子どものころから
「感受性が乏しい」という評価を親からまでされてましたけど……何か?

言っとくけどね、スイッチが入らないわけじゃないんだ。
過電圧/過電流保護コントローラ的なものを心に実装してるんだよ。
それはたとえば
「人生に多くを期待しない」というような、
受信感度を摩耗させて身に着ける方法もあるんだろうけど

たとえば「夕立の武士」に出てくるこいつ、頭くるなー、むかむかするよねー
というような感情を、読書を通じて一度経験しておくと
現実でそういう奴に会ったとき(居るんですよね絶対!)

怒りスイッチが入るかわりに
そういえばこいつアレに似てるスイッチが入ることで
過負荷が回避できるのです。

自分の感情なんて、世の中で最も扱いにくいモノに決まってるじゃないですか。
その「対象化作業」に慣れておかないと
さらに取り扱いが困難な
他人の感情とどう向き合うかの智恵を獲得できるわけがないですよ。
つまり、そんなことで喧嘩すんな、サラリーマンふう若者。学生ふう若者。
自分の感情ってもうちょっと深いところから出てくるものだと思うよ。

浅いところでスイッチのON/OFFを繰り返してきたような人物に向かって
鞍馬天狗が最後に言うセリフは、まさにそういうことかと。

 「...(おまえが)いま、申したことが生き身の人間の言葉だ。初めて人間らしいことを言った。人という人が、すべて、その声を漏らして喘いで毎日毎日を生きている。いまの(自分の)言葉を忘れるな。」