31.海道記
初出:1951年オール読物1月号
参照:朝日文庫版(10)(1981年11月、解説なだいなだ)
時代設定:1869年10月
「府中を改めて静岡となっていたが、東京を離れてここまで来ると、まだ新しい明治の匂いはない」
(=改称は1869年7月)
「庭にある木犀の花のかおりが、座敷を抜けて内廊下にまで匂っている」
1981年、草刈正雄が鞍馬天狗を演じたTVシリーズ
とあわせて刊行された朝日文庫版
の第10巻に収載されている本作ですが
精神科医兼作家のなだいなだが、
興味深い指摘を巻末解説に書いています。
対象への同一化というのは、人間の持つ厄介な性質の一つである。この同一化のおかげで、たとえば木戸孝允の研究家は、木戸孝允の目で、日本を見るようになる。はじめは学者あるいは作家として日本を見ていたのに、のめりこんでいくうちに、政治家木戸孝允の目で日本を見るようになってしまうのである。
ところが大仏次郎は鞍馬天狗というキャラクターを創造したおかげで
自由な視点から幕末を見ることができた。
だけでなく“鞍馬天狗的な人物”を作品に配することで
あらゆる事象から距離をおいて見ることが可能になったのだ云々。
本作では
明治維新後も相変わらずフリーランスな鞍馬天狗が
とある(金にはならない)案件で静岡出張に行った際
政権交代によって3次産業から1次産業に転職した人々を目撃します。
(こうならなければ、世の中が新しくならないのだ)
深く、こう思ったが、この人たちに代って江戸にはいった新政府の連中がなにをしているかを、同時に振返ってみずにはいられないことだった。旗本たちの幕府に代って、地方出の武士だけの政府が出来ただけのことのようである。官員とみずから称して、人の上に立って、むやみに威張る奴らである。
時代小説というジャンルそのものが成熟したおかげで
大仏次郎が“開発”した、こうした視点を
今日の我々はふつうに獲得できているわけですが
一方で、現実社会で政権党が交代して覚える
「ただメンバーが代っただけ」感
「むやみに威張る奴が出てきた」感
などなどに覚えるガッカリ感
ってどうしたもんでしょうか感。
そういえば
任期満了の直前、次期出馬を問われた某都知事が
「なんだかんだ言われながら、さーっと姿を消すのがいいじゃない、鞍馬天狗みたいに」
と発言したことがありまして(2011年2月27日)。
ええ、鞍馬天狗を愛する者として
この、調子にのった/調子っぱずれなことばを聞いたときの
苦々しい思いは決して忘れません。
(ついでに言うと、結局出馬したばかりでなく
当選まで果たしやがったんですけどね!)
「やることやったら未練なく去る」→カコイイ!
レベルの、論駁に値しない発言とはいうものの、いくらなんでもこれはヒドイ。
たとえば、本作における次のようなセリフが
鞍馬天狗の本質であることを知っていれば
引用できるはずがないのです。
「私の立場は、いまの政府と反対ですよ。あるいは、いつの時代が来ても、権力を握っているものに反対するのが自分の選んだ立場と申したらよいのかも知れぬ。」
件の都知事閣下の場合
同一化すべき他者の存在が思考からまったく欠落していることこそが問題なので
それこそ精神科の先生方の出番では、と思うわけですが。