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44.黒い手型


初出:1958年週刊明星
参照:中公文庫「時代小説英雄列伝 鞍馬天狗」(2002年9月、縄田一男編)
時代設定:1864年10月
 「近ごろは長州も薩州もご公儀のご威勢があるから、以前より控え目になって...」
 (=文久の政変が1863年)
 「十日ばかりの秋の月が」
 「どこからともなく木犀の花の香が漂っているようであった」


裕福な商家の一粒種が誘拐された。
届けられた脅迫状には墨でつけられた不気味な手の型が。
犯人に詐称された不名誉をそそがんと、鞍馬天狗が真相を追う!


とまあ、ちょっとしたフーダニット。
読者におなじみの杉作も吉兵衛も登場して
エンターテイメント色濃く仕上げられているのは
創刊間もない週刊明星という発表媒体の意気込みも無関係ではなさそうです。
(創刊号の日付は7/27で、本作が連載されたのは10/19〜11/30号)
(完結の翌週12/7から翌年2/22まで続くのが「46.西海道中記」です)


なお、連載時のタイトルは「夜の客」だったものの
それだと「41.夜の客」と同じですやん。と指摘されたのか
「黒い手型」にあらためられています。
ネットのどこかで「黒い手形」という誤記を見かけた気がしますが
それだと経済小説になってしまう(!)ので
「黒い手型」が正解ですね。



さて、なにしろ半世紀前の時代小説ですし、作家・大仏次郎
必ずしも女性の描写を得手にしていたわけではないと思うのですが
それでも彼の文章を引き写しているだけで
満たされるような気になるのは……私がファンだから?
そうかも。以下、ちょっと長めに引用します。

 お長は、湯屋から帰って来て、鏡台の前で化粧をしていた。秋晴れの明るい昼間だった。隣の物干で、女たちが話す声がしている。
 表の格子があいて、誰か入って来たようであった。脱いでいた肌を入れようとすると、出て行った老婆と話している声が、旦那の長五郎のものだったので、 
 「旦那?」
 と、声だけかけて自分は鏡台の前から離れずにいた。長五郎は、そこに入って来たのは、当然のことだが、変に黙っているな、機嫌でも悪いのかと、振り向くと、連れがあって、その連れが武士で、お長を見て笑った。
 あ、とお長は口走って、おしろいの刷毛を落すところであった。
 「これは。」
 と、鞍馬天狗は、平気であいさつした。
 「悪いところに来てしまった。」
 お長がうろたえたのは、肌ぬぎで乳まで見せていたせいばかりではない。
 「旦那……」
 長五郎は、見るからに、がっかりしたような顔つきで、苦りきっていて、相手でない。
 「かまわないぜ。左官屋に半分で、手をやすめさせては気の毒だ。」
 鞍馬天狗は、狭い庭に向かって、膝を抱えて坐りながら、こう冗談を言った。
 「お口が悪いったら。」


鞍馬天狗に子ども扱いされる下級官吏とその内縁の妻、
という組み合わせはこの長五郎・お長だけでなく
たびたびシリーズに登場するお馴染みです。
が。
この、とりとめもないシーンで
瞬時に三者三様のポジションを書き分けている筆力には
唸らざるをえません。たとえば最後の地の文
鞍馬天狗は、狭い庭に向かって」。
これ、彼がそっと背を向けることで
キマリ悪くなりそうな女性の気分を緩和している描写なことが
おわかりでしょうか。
もうね、おまえら是非こうした名文を堪能しろください。と言いたい。


ちなみに、この作品にはもうひとり女性が登場して
物語の役割としてはあきらかにそちらの女性のほうが重要なのですが
中心に置かれる女性より
お長のような、脇役として登場する女性のほうがいきいき動く、
という大仏次郎の法則(←いま作った)
に従っておりまして、これを原作に映画化するような場合には
ヒロインにはアイドルを起用しつつ
実質的に観客の目を奪うおいしいところは
お長姐さんを演じる役者が持って行ける、という
実に優れた構成になっております。


   さらにちなみに、1958年というこの作品発表時には
   既に「鞍馬天狗」映画製作の峠は越えており
   59年マキノ雅弘監督・東千代之介主演で
   「27.鞍馬の火祭り」を翻案した作品が製作された後は
   65年の安田公義監督・市川雷蔵主演「16.天狗回状」翻案
   「新・鞍馬天狗」まで6年のブランクがあるみたいですね。
   どうせなら「黒い手型」ぐらいの小品のほうが
   プログラムピクチャーの素材には向いてたのにねえ、と
   門外漢ながら残念に思ったり。