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追悼フィリップ・シーモア・小デブ・ホフマン■ヤったかヤらなかったか。が問題なのではない「ダウト-あるカトリック学校で-」

我が最愛の小デブ(といっても身長177cmらしいんですが)
フィリップ・シーモア・ホフマンの訃報に接し、
かつて某SNSに書いていた日記を
謹んで捧げるです。

(オフィシャルサイトから適当に抜粋したあらすじ)

時代が転換点を迎えつつあった1964年のアメリカ。
カトリック学校の厳格な校長(メリル)は、
進歩的で生徒にも人気がある神父(フィリップ)が
学校唯一の黒人男子生徒と“不適切な関係”にあるのでは、
という“疑惑”を抱いていた。
純真な新人教師(エイミー)の目撃談によって芽生えた小さな“疑惑”が
彼女の心を支配し、彼への敵意と変貌する。
果たしてすべては彼女の妄想なのか?
それとも彼が虚偽の証言を行っているのか?

メリル・ストリープvsフィリップ・シーモア・ホフマン
とばかり喧伝されているので
てっきりそういう作品かと思ったのですが
実際には我が愛する小さいデブ、
フィリップ・シーモア・ホフマン
あのね、この子はやればこれぐらいは簡単にできる子なの。
いまさら騒がないでほしいわこのぐらいで。
という程度の「名演」、もちろんメリルも力量どおりの「名演」。

さらに言えば
本作出演者から大挙4人もオスカー・ノミニーが。と言われるとき
常に3番目に名前が挙がるエイミー・アダムス
「両先輩に劣らぬ好演」。

彼らがすべて、予測範疇におさまるレベルだったので
真に度肝を抜かれたのは
たいていの記事で4番目に言及……されるのすら忘れられている
(黒人生徒の母親役)ビオラデイビスでした。

ただ、見終わって心に残ったのは
メリル対ビオラとかメリル対フィリップとか、
登場人物同士の丁々発止ではなく

「ダウト」という映画の題名があらわすとおり
人が何かを「疑う」ということは
あるいは
人が何かを「信じる」ということは
……どういうことなのか。
というテーマのほうでした。

要するにヤったかヤらなかったか。の映画。
というお下品な総括を
某夕刊紙はしてみせていましたが
まったくもってそれは逆で
むしろこの作品でいちばんどうでもいいのが
ヤったかヤらなかったか、という部分。

God is a concept by which we measure our pain.
ジョン・レノンが歌い
ゆるぎないとされている軸だって
絶対ではなく相対なんだよ、と
「言っちゃった」のは
この映画が描く5年後のこと。

映画を見ているわれわれは
信じる
という行為が、いかにあやふやなものか、を
共通認識として既に「知って」いる。
あるいは、カトリックという閉じられた世界の住民である
この映画の登場人物たちが奉じている
絶対的な存在
絶対的な信念
絶対的な正義
etc,, etc.
がいかに脆いものか、も。

……というところで、個人的に思い出す風景が。

ニューヨークに住んでいたころ
台湾出身の友人の行動規範のすべてが
本人が信奉する風水師の指示なのを見て(おお、紀香っぽい)
出自はどこであれ“アメリカ人”の友人たちの認識は
「自分の将来という大切な問題を他人にゆだねるなんてとんでもない」
というあたりで共通していました。

そんななか唯一
「そうかなー、それはそれでとってもbraveだと思うけど」
と言っていたのが私。
いまだにその思いは変わりませんし
いまだにその思いを英語で言語化できる自信はないww。

要するに
それが風水師であろうとも
「自分が全幅の信頼をおくことができる存在」を
持ちうること、それ自体がとてもシアワセに見えたし
そのシアワセを獲得するために
いかに強い意志を発揮しなければならないか、を思うと
その境地に自分は到底たどりつけそうにないように感じる。
それが私の考えるbravity、または
いかに私が私自身をヘタレと認識しているか。ということなのですが。

もっとミもフタもなく言っちゃえば
愛、でもなんでもそうだけど
何かを妄信できるひとは強いな。
友達にはなれるけど、俺とは違うな。
……またずいぶんミもフタもなくなったね。

で、メリル・ストリープ演じる校長先生、
フィリップ・シーモア・ホフマン演じる神父、
敬虔なカトリック教徒として信念を貫き通します。
というスタンスは最後まで揺らがないふたりの対決に
勝敗があったとすれば

「敗者」だけが今後
信じる
という境地に、二度と立てない。
より正確にいえば
これまでのように「全身全霊を賭けて信じる」ことができなくなった、
そうラストシーンで明快に描かれるのですが
(このあたりがハリウッドならではの“親切”)

いや、何もかも、そこ。
そこから始まるんじゃないんですかね。
と小声で敗者に共感する私でした。