編集者が編集するのは本だけじゃない! ○○もだ!

ウェブも電子書籍もDVDもCDも編集しちゃうよでもいちばん仕事多いのはけっきょく紙

「こんな××見たことない」的なフレーズにもにょる日々

自分のツイートなんで遠慮なく引用しますが
今年の2月某日、某紙朝刊全5段広告を見て
それまでなんとなく控えていた感想が噴出しちゃった(イヤン
ときの模様がこちら。

「ジェノサイド」をしのぐ「グレイヴディッガー」。って宣伝文句としてのモラルを逸脱してんじゃという思いが離れない(全5段を見て遂に告白)。(〜をしのぐ)って書くことで、時系列的に「グレイヴ」のほうが後に書かれた? 勘違いを購入者が持ってもその責任は負わない、と言ってるようで。

最新作に「匹敵する」著者のルーツ、という言い回しが迂遠なのはわかるけど、でもさー過去作に(しのがれる)最新作って何なんだお。

講談社文庫版の「グレイヴディッガー」持ち、かつあれだけ評価の高い「ジェノサイド」が文庫化されるまで3年ですか、3年待てばいいんですか。な文庫派として、角川文庫が前者を推す際に安易に採用した惹句に対する違和感をあらためて申し上げた次第であります草々 不一。

過去最も文庫化まで待った作品、という記憶で明瞭なのは有川浩「空の中」で。SIGHT別冊で大森望北上次郎に推している様子を見てから文庫に入るまで4年……あれ、4年なら「孤宿の人」4年半のほうが長いぞ。ええ、つまり、文庫派っつーのはそれぐらいにはテンションが持続するのだ。

文庫1冊の値段500〜700円が「作品にとっての適正価格」とは思わない。たぶん2000円ぐらいが順当な(作家へ示す敬意の価格)。つまり(面白いという評判を耳にするや否や単行本で購入して語る層を横目に見て歯がみする)状態に値付けするなら、この差額の千数百円が相当。って何この計算。

そうか、旧作にしのがれる新作を待っている文庫派に失礼でしょそんな言い方謝んなさいよぅ。と思いそうになったけど、そういうハズカシメを受けるのも文庫という廉価版を待つ身ゆえ、と思えば恥辱に耐えられるんでござる。も、もっとはずかしめて。でござる。

なんの話かというと
この一連のツイートで「どうなのそれ」と私が思った版元が
さいきんまた、
別の作家の別の作品で
似たようなニュアンスのPR展開をしていて
それがなあ、という話。

水戸黄門といえば大仏次郎の昭和10年作品も実はそこそこリーダブルなんですよ? 最新某作品が「こんな水戸黄門はいままでなかった」と言っているのを見るたび若干私の目がひややかになるのはそういう……おや、誰か来たようだ。


これ、今朝のツイートなんですけど
……いいんですよ、
新規性あふれる傑作なんだとしましょうよ、
話題になった前作も実はまだ(文庫化されたっつーのに)読めていないのですが
たぶん面白いんだろうと思う。そこを疑う必要はない。


だけど、自分の優位を誇るのに
何かと比較して、それより上
っていう言い回しをなぜ使うんか。


「ジェノサイド」をしのぐ、にせよ
「こんな××はいままでなかった」、にせよ


それは作品の受け取り側が言うセリフであって
送り手が言うのは、自らの何かを失うことだと思うんですよ。
もちろんこれは感覚の問題ですから
“全俺が泣いた”の延長線上ですよHaHaHaとおっしゃるのなら
なるほどですねー
とお答えするつもりはあるんですけどね。

鞍馬天狗全作品レビュー完了の記 付・作品年表


夏休みの自由研究に
鞍馬天狗の全47作にレビューつけていこうず。
と思い立った時点で未読作品がけっこうあったので
ゴールまでの道は小学生の自由研究並みには険しいものでした。


終って覚える解放感は
これでようやく鞍馬天狗以外の本が読める
というはなはだアレなものでしたが(←正直者)
いやー長かった。


いろいろな発見がありましたが
いちばん心に残ったのは
朝日新聞出版がオンデマンド版で
大佛次郎時代小説全集(全24巻)を出していて
その惹句が
  あの国民的ヒーロー"鞍馬天狗"の全話が
  堪能できるのは本全集だけ。
と、26編しか入ってないのに大嘘を堂々と書いている件。
これはね、真剣にダメだと思いました。


なお、大仏次郎作品が青空文庫に入るのは2023年です。
青空文庫プロジェクトは全面的に支持する私ですし
鞍馬天狗アクセシビリティが向上するのはいいねえ、と
真剣に思いもする私ではありますが
今回、鞍馬天狗を次々に読みながら思ったのは
“現時点で”この作品をどう読めるか、という解題が付いてくる点に
コンテンツの有償/無償のラインを引けるのかもなあ。
ということでした。


一応ほら、仕事っぽい感慨もなくはないってことで

鞍馬天狗作品年表

・作品内の“事件”発生時点をその作品の年月とみなしています
・作品名の末尾に#印のあるものは、作品内での時間経過があまりに長引いたので
 “事件”終了時を表したもの
・A系B系については「2.銀煙管」参照

年月 作品名A系 作品名B系
1862年3月 1.鬼面の老女  
1862年8月   26.天狗倒し
1863年3月 13.剣侠閃光陣 19.雪の雲母坂
1863年4月   28.鞍馬天狗敗れず
1863年6月 2.銀煙管  
1863年7月 3.女郎蜘蛛  
1864年2月 30.紅梅白梅 41.夜の客
1864年3月   39.夕立の武士
1864年4月   37.雁のたより
1864年6月   16.天狗廻状
    18.宗十郎頭巾
1864年7月   40.影の如く
1864年8月 22.幕末侠勇伝  
1864年10月   44.黒い手型
1864年11月   45.天狗が出た
1865年2月   36.青面夜叉
1865年3月   11.角兵衛獅子
    47.地獄太平記
1865年4月   27.鞍馬の火祭り
    14.山岳党奇談
1865年5月   17.地獄の門
1865年7月   21.御存知鞍馬天狗
    15.青銅鬼
1865年10月   38.紅葉山荘
    46.西海道中記
1865年11月   33.淀の川舟
1866年3月   42.女郎蜘蛛
    20.江戸日記
1866年6月   47.地獄太平記#
1866年8月   24.西国道中記
1866年9月   20.江戸日記#
1866年10月   43.深川物語
1867年9月 4.女人地獄  
  5.影法師  
1867年10月 6.刺青  
1867年11月 7.鬘下地  
1867年12月 8.香りの秘密 35.一夜の出来事
  9.御用盗異聞  
1868年1月 10.小鳥を飼う武士 34.風とともに
1868年3月   25.薩摩の使者
1868年4月   23.江戸の夕映
1868年5月 12.鞍馬天狗余燼  
1869年5月   32.拾い上げた女
1869年7月   29.新東京絵図
1869年10月   31.海道記

フリーランスとして生きる@幕末


1943年に週刊朝日で連載された「天狗倒し」
および
1945年6月〜10月に東奥日報佐賀新聞ほか地方紙で連載された
鞍馬天狗敗れず」
という2作品は
生麦事件(1862年8月)直後からのおよそ半年間の横浜を
フリーランスのジャーナリストを追うことで
浮き彫りにしようとする試みです。


ええ、ここでいうジャーナリストとは当然
鞍馬天狗のことなのですが。

作者・大佛次郎によってこの世に生を受けた時点(1924年)では
鞍馬天狗なる人物は、まあひいきめに見ても
右傾したテロリストというほどの存在でした。


  ご存知ない方のために申し上げると、
  尊王・反幕府というのが
  鞍馬天狗に課せられたアイデンティティー。


作者の筆が練れてきて
作中人物が自ら書割的な存在を脱するにつれ、
徐々に鞍馬天狗
「劣勢のなかでも信念を貫く尊王の志士」
  ↓
「数を恃む新撰組にたった独りで立ち向かう好漢!」
  ↓
「反幕府とか薩長とかではなく、アンチ公権力なのが俺だ」
  ↓
「可能なら腕力以外の方法で目的を達したい」
という具合に
立ち位置を変えていきます。


いわゆるチャンチャンバラバラ・アイコンとしての鞍馬天狗、は
そういうわけで、原作においてはほぼ最初期にしか登場しません。
「天狗倒し」「鞍馬天狗敗れず」という
40年にわたって書き続けられたシリーズ中の
19年目、21年目に書かれた作品においても
−したがって−ほとんど剣戟シーンはありません。


剣をとらず何をしているか? というと
もっぱら考えている。


作品で描かれている生麦事件とは
グローバルなオポチュニティにコミットすることになった日本という国家が
ビギナーらしい右往左往を重ねているの図、でして。


主人公たる鞍馬天狗は“本来なら”
煮え切らない幕府の対英国方針に業を煮やし
痛快なナニゴトかをおこなうべき・なのでしょうが
なにぶんフィクション上の人物ですので
正史を変えるようなことをしてはいかん、
という足かせを
あらかじめ作者によってハメられています。


ですから、じりじりしながら、
鞍馬天狗一個人としてはこうあるべきだという考えを抱きながら
あっちの現場に潜入して事件を目撃したり
こっちの現場で直接キーパーソンに単独インタビューを試みたり(ノーアポで!)
結局、行動したくて仕方がないキャラなのに
考えるしか、やることがない。


ジャーナリストが
彼/彼女の目に映る事象を伝えるとき
「個人の見解」とは別に
新聞記者だとか、報道部のなんとか、だとか
所属する団体によって
当人が自覚しないまま
なんらかの予断が込められてしまうことってあるよね。

とは、ソーシャルネットワーク全盛の昨今になって
ようやく周知されてきたことだと思うのですが
鞍馬天狗という人物の面白さは
一貫してフリーランサーな点にあります。

薩摩藩なり長州藩なりというスポンサーは背景にあるのですが
雇用上はあくまでもテンポラリー・スタッフ扱い。
ちなみにオフィスもありません。


幕府が、とか
薩摩藩が、という立場を離れて
考えるひととして、状況を伝える
渾身の「生麦事件のころの日本レポート」。
いま読んでも面白いと思います。
……というか、面白かったんです。

あーまあ小説としては、終盤ばたばたっとするのでキズがないわけではないんですけどね

鞍馬天狗の年表作成が楽しすぎて困る件


読者歴30数年という、
自分史上最長・最古の愛を
鞍馬天狗というおじさんに抱いている私ですが
ここ数週間で、急激に愛が加速してるんです。
理由は……とくにないね(キリッ

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小説の果たす役割を思う。奥田英朗「沈黙の町で」


新聞の朝刊連載、という形態で400数日にわたって続いた
奥田英朗の小説「沈黙の町で」。


あと2回で完結する、というタイミングで
こうしてなんか書こうとするのは
とりあえず最速レビューの座を手に入れようという魂胆がバレバレ
……ですけど……ですけどっ、これはこれでいいのっ。
円環を最後に「閉じる」のが作品のエンディングなのね、ははーん。
と分かるように作者も書いてるから
驚くような何かが残っているわけではないから。たぶんだけど。


新聞連載という媒体で
現実が小説を模倣した金字塔としては
宮部みゆきの「理由」を真っ先に挙げたい私ですが、あれは
占有屋という社会の異物的存在を物語の中心に据えることで
「知らなかった!」という鮮やかな驚きをもたらす作品でした。


一方、学校でのいじめという“古びた”素材を扱って
淡々と1年にわたって話を積みあげるうち
人が注目せざるをえないような現実の事件が
「あらためて」起きてしまった、のが
奥田英朗の「沈黙の町で」。
「思いあたるフシ、あるだろぉ?」
ねちねちと400数日かけて迫られる、そんな作品でしたね。


事件にニュースとして接していると
簡単に同情したり
簡単に憤慨したりできるけれど、それはまた
簡単に忘却できる、ということでもある。


学校ってば
広義には密室と呼んでいいような、閉ざされた空間なので


  加害者がどういう人物だったか
  被害者にはどういうバックグラウンドがあったか
  その親は、兄弟は、親戚は。
  そのとき学校の教師は何をしていたのか。
  組織としての学校を代表する校長は?
  警察はどういう調査をしたのか、
  新聞記者は何を思い、どう報道したか、
  事件が起きるまで、好むと好まざるとに関わらず
  同じ密室空間に居合わせた「その他の生徒たち」は
  何をどう思っていたのか。


リアリティーを追及する手法では
カバーできないことがある。


フィクションならではの想像力を駆使することで
たとえば
被害者・加害者の母親の視点とか
必ずしも傍観していただけではなかった、と
自分のことを思っている同級生の視点とか


「ニュースを摂取するだけの立場」だと気付かないような
自分だって完全な無関係ではいられない「やりきれない気持ち」
−またはその残滓−がしつこく残る。
ああ、これが小説の力ってものなんだな、と思わされた
奥田英朗「沈黙の町で」。


いまこそみんな読め。いますぐ読め。
(=緊急電子書籍化、とかやればいいのにねえ)

不肖の弟子による壮大な復讐劇


山本夏彦のコラムを拾い読みしていたら
ずいぶん中村武志の肩を持つねー、という1篇が
目に留まりました。

その次の日ぐらいに、Q&Aサイトで
内田百間の文庫は旺文社版と福武版のどちらが手に入れやすいですか」
的な質問が上がっていて
お、セレンディピティー。
と思いながら回答していると
あることに思い至りました、それというのは!(←


さまざまな版元が刊行している内田百間作品、
ごくあたりまえに
「新かな新字」表記なんですね。


旺文社文庫版が市場から退場することになって
福武文庫版が刊行される際
編集方針を定めたのが、ほかでもない中村武志
「旧かなづかいに親しまない読者もいるので」
「亡き師の意志にそむくことは承知のうえで」
「あえて新かなづかい、漢字も新字体に統一した」
云々とたしか緒言にあったと記憶しています。


個人的にはとにかく
旺文社文庫版で育った百間読者なので
ご本尊が決して認めなかった新かな新字表記は
 邪 道 だ
と思うわけですけれど
しかしまあ、多勢に無勢といいますか
それもこれも、世の中の流れなことはわかっちょる。


師・内田百間に尽くして尽くしぬいた挙句
たまたま書いた自著がベストセラーになったら
先生にツンデレのデレ抜き、即ち
えらく冷たい仕打ちをうけて
それでも先生のことが好きで好きでたまらなかった、
それが中村武志というひとなのですが、


  山本夏彦いわく
  弟子の出世を寿ぐどころか
  嫉妬する百間先生、さすがにおとなげないにもほどが。


師が忌避し厭悪した
新かな新字表記による作品集のおかげで
新しい読者が
漢字仮名遣いに何の疑問も抱くことなく
日々増えていくというこの事態、
まさしく
不肖の弟子による復讐劇、ここに完結というべけんや。


……そういうわけで
中村武志に寄せる同情がなかなか
心中にわきおこりません問題。

奥田英朗の「無理」はそこまで無理でもなかった


「邪魔」と「最悪」
相変わらず、どっちがどっちだったか
思い出す気もなく書き始めていますが
奥田英朗といえばその2作品!
を挙げたい気分が常にある読者でごんす。


文庫化最新作「無理」も上述2作品同様
いわゆるグランドホテル形式、
複数主人公がそれぞれの人生を歩いていく足音が
偶然重なったり・すれ違うとき
たまたま奏でるアンサンブルを愛でましょう。
そういうタイプの小説で
これ、容易に想像できることですが
腕がないとそもそも作品として結実しないですね。


作中人物を書き分ける腕力
読者を遠慮なく引きずりまわす膂力
そして
「おお、そうやって集約させるか」という構成の妙。


どれをとっても(くどいようですが)
「邪魔」「最悪」で
アッパレとしかいいようがないほど成功済なだけに


逆に、作家としてのアブラが乗ってる時期に
「また」「そのパターンをやる」って
どうなんだ。と正直思いながら読み始めたわけです。



話は一瞬それるんですが
奥田英朗とはまるで別タイプの作家さんが
ツイッターでつぶやいておられて
そうだよなー。と今朝思ったのが
某週刊誌の立て続けのスクープを評した

世の中とはこういうものなのかもしれないけど、あまりにもなんていうか……
正直、空気が臭い、息苦しい


ねえ。

面白いな、と思ったのは、この作家さんも
憎悪とか愛憎とか
ドロドロしたナマの感情の中で浮き上がって見える
「人間というもの」
を描いてきていたんではないのか、と。


そして、あんなに息苦しいほどリアルに読んでいた作品の
作者がまさに感じているとおり
ひょっとすると、いまや現実のほうが
フィクションばりに息苦しくなっているという
……面白くはないね、コワいね。


あ、そうじゃなかった。
言いたかったことは
「とはいえ、現実にフィクションが負けちゃダメっすよね」
ということでした。


作品「無理」を
作者ふりかえっていわく

ストーリーに頼った小説ではないので。
ただ書きすぎないようにっていうことにいちばん気をつけました。
もう言わずもがなのことを書かないように書かないように、と。
結局、読者にゲタを預ける部分がすごく多いんですね、この小説は。
http://bunshun.jp/pick-up/muri/interview/index.html


「邪魔」も「最悪」も
あまりに“よく出来てたフィクション”だったので
あえてそうしなかった、という弁に読めて
その試みについては意気やヨシ、と賛同したうえで
申し上げたいのですが


複数主人公が
「無理」というキーワードにまとめるしかないような
シチュエーションにそれぞれ陥って
そのうえで一瞬
彼らの人生が交錯する。
そのあとの
「ゲタの預けられ方」には
若干「ん?」となったりはしました。



つまり、奥田英朗読者だから預かります、そりゃもう喜んで預かりますけど
もうちょっと預けるゲタのあり方というか
ゲタの預け方というか、そのあたり……


これ、「現実にフィクションが勝っている」か?


だって奥田英朗が「無理」っつーんだからー
もっと「無理」かと思うじゃないですかー。ふふふ。
おっけー(=おっけーなんかい!

時代小説としての「B型平次捕物帖」


フィクションを摂取する行為って、
「非日常世界に自ら飛び込むこと」ですよね。

つまり、慣れてないひとは入口でつまづくし
慣れてるひとは敷居を飛び越していることを忘れる。

オペラとか歌舞伎とか、わかりやすすぎるほどわかりやすい
「とっつきにくい」ジャンルはもちろん
たとえば「小説」だって「アニメ」だって「まんが」だって
その敷居をまたぐことが障碍になることは、ある。


いしいひさいち作品についていえば
そういう意味では敷居がきわめて低めに設定されていて
(簡素だけど特殊な感じを持たせないあの絵柄とか)
(新聞という旧メディアに掲載が可能なのも敷居の低さゆえ)
フィクション世界に飛び込んだことを忘れさせておいてからの衝撃どーん!
みたいな芸風、とまとめることはできるんじゃないでしょうか。


さてそこでB型平次ですお立ち会い。

星新一の時代小説を読んだときに思ったんですが
時代小説を書こうとするあなたが知っておくべき○ヵ条、
とかいうモノが仮にあるなら


・季節を描きましょう
・江戸なら江戸、戦国なら戦国。その時代ならではの風物を作品に織り込もう
・時代考証を確実におこなった痕跡をあえて文中に残すのもいいでしょう


あたりはかなり番号の若いほうに書かれている事柄だと思うんですね。
で、これらの裏返し的な条項も
数字あわせ的に後半にきっと登場してるん。


・季節を描くのは読者が「今はなくなってしまった原風景」を求めていることへの
 回答が時代小説だからです。もしあなたが季節を描かない/描けない場合には
 代用になる何かで「ああ、懐かしい」思いを読者に与えるべき。
 それがたとえ、「となりのトトロ」を見た小学生が「懐かしい感じがする」とかいう
 レベルの感慨であっても、です

・時代背景をそこに設定した必然性を作者なら持っているはずですよね?
 中間管理職の苦悩を仮託しました、とか
 女性はいつの時代だってぜんぶお見通しなんだぜ、とかそういう。
 それを読者にそこはかとなく/しかしちょっと考えればわかるような
 浅いレイヤーに埋めておくことで
 (みごと見破った)読者と
 作者の間で、共犯者体制を築くことができるのです

Wikipediaレベルの時代考証(ぷ)で見破られるようなことを描くぐらいなら
 「いや、日本の江戸寛政年間にこんな史実はなかったけれど」と言い抜ける心構えを
 あらかじめしておかねばなりません

と考えてきて、いしいひさいちの、
自他ともに認める作品群中の最高峰「B型平次」シリーズはどうか。


・季節を描かないかわりに
 「平次」という記号をこれでもかと描くことで
 時代小説門外漢すらも「懐かしい」スタンプを獲得できる

・対象物以外を描くことで対象物を浮き上がらせる手法
 ……とでもいうべきか、
 たとえば「オーソドックスな平次ってこうだろ」と
 読者の脳裏にぼんやりある「岡っ引きが活躍する世界」を
 「違うwwそうじゃないww世界」を描くことで
 明確に読者との共同作業を完遂する

・時代考証? なに野暮いってやんでぃ。
 という装置としての、そもそものB型平次という名乗り

そう。「時代小説を書こうとするならこれは守ろう」
というお約束を律儀なまでに守って描かれている、
それがてーへんだおやぶんなんだってハチちょっとおまえさん!
「B型平次」なのでござる。

いしいひさいちムックの読後感がなんともいえない

河出書房新社の「文藝別冊」シリーズに
いしいひさいちが登場、というので
絶対アタリだろこれ。と安心して発売日を待っていたら
前日から購入を報告するひとびとのツイートが。
思わず

文藝別冊いしいひさいち、一応明日が発売日ってことになってるんだからいいもん、明日買うもん。と(トのお店覗いたけど無かったんです!)既に手に入れたひとのツイート見ながら歯ギシリしているアカウントがこちらになります。


スネてみたら、ほかならぬいしいひさいち奥様から
リプライいただく展開になって
結果、得した感。

内容はというと
現役漫画家たちのトリビュート作品がいずれも
やっつけとは程遠いガチなクオリティーで
(サイバラ「私もパクってんだよ誰か気付けよ」w)
待望の著作一覧も巻末にちゃんとあって
いやー、非の打ちどころがない。


巻頭「でっちあげインタビュー」は
いしいひさいち本人がQ&A形式で語る体裁で
作品内では口にしないようなことを
ところどころで漏らしているという
たいへん貴重なものでしたが

あらためて、大病を経た作者が
「辞表のようなもの」として
連載を朝日新聞1本に絞っている、
もう増やすことはない、と言明していたのが
いちばんの衝撃でした。


ののちゃん内で
壁新聞という(かなり強引なw)フォーマットを使って
ときどきでも、平次親分や地底人が登場しているわけで
作品のバリエーションが平坦になってしまうのが寂しい、
っていう意味ではまったくなく

いろいろな媒体で、いろいろな作品群を
奇跡のように量産し続けてきたのが
いしいひさいちである、という
20年来あたりまえ視してきた事態が
実はね、ここだけの話だけどね。
異常だったの。
って諭されても
不得要領に目を伏せるしかないでしょう!(←逆ギレ


まあね、天才が作品を産み出すペースは
究極には自分でもコントロールできないものじゃないか、
とか思うと
連載1本でいくと言いつつ
これからもいろんな驚きを与えてもらえるんだろう、と
うっすらした期待は抱き続けたいところなんですが。


あと「迎」の字を1画多く書いちゃう癖は誰か教えてあげたほうが

結城昌治の既読タイトルが30冊になった模様です。

エントリ名が伝聞チックなのは
1冊ずつの記憶があいまいだから。

いや、自分の物語記憶力が衰えていることを否定するつもりはさらさらありませんが
わりと同工異曲なお話の多いひとでも
1冊ずつの区別がつけやすい作家と
そうでない作家がいるんですよ。

結城昌治が私のなかの「区別つかない」極北)
(同工異曲言うな!)

たとえばいちばん最近(3分ほど前)読み終えた
「死者たちの夜」


キーワード的には、これは
・短編集
・紺野弁護士シリーズの1
・ミステリとかサスペンスの風味を交えつつ
・プリミティブなハードボイルド
・ミステリ風味ではあっても謎解きを重視してない
・つまり事件が起きます、フーダニットとかハウとかホワイとかじゃない
・何が起きたんや。という疑問符を一生懸命描いている、ような
・全編を通じて漂う「厭世感」


収載されている作品を
かたっぱしからあらすじと一行感想メモっていく
とかいう作業をやらないもので
(あれ他人がやってくれるのって本当に便利)


たぶん明日になっても私の読後感として残ってるのは
最後の「やー厭世的な作品集だったなあ」
ということだと思われます。


ただ、その
「こんな世の中で生きていかねばならない自分に
 ほとほとうんざりしている」
的なニュアンスは
結城昌治の作品に共通したものかもしれません。


たとえば「刑事」という
売る気ないだろオマエw という短編連作集があるんですが


人の一生におけるアンコントローラブルな何か
(性分とか“あらかじめ書かれていた運命”とか)との戦いを、
刑事モノというキャラ立て明快な舞台で描く。
そういう意味では
藤原審爾の作品群との類似性が考えられなくもない。

善悪のバランスシートの帳尻を
わ ざ と あわせないまま
お話を完結しちゃうところとかも、似てるといえば似てる。


ただ、読み進むうちに気付くことなんですが
藤原審爾に比べると
(世の中の理不尽を突き放せない痛みの量)が
結城昌治のほうが圧倒的に多い気がします。


藤原審爾結城昌治もご本人が「大病を患って死の淵を覗いた」経歴あって
その体験由来なのかと妄想してしまうぐらい
ドライな手付きで
作品中の登場人物を扱っていくのですが
物語のエンディングで主人公がどんな目にあうか。
ここがほぼ正反対に、違う。
いや、当人にとっては悲劇としか言いようがない、
という意味では共通しているのですが

前者では作中人物はぽーんと突き放されちゃうのに対し、
後者では作者と一緒になって
主人公は物語世界に沈殿していく。


藤原作品がカメラ引いて終るとすれば、
結城作品は人物の表情アップで終る。
そんな感じ。



だから、なんですかね。
藤原審爾作品の読後感がたいてい
「わーここで置いていかれるのかーマジでー」
と、いっそすがすがしいのに対して
結城昌治の場合は
なんか内にこもっちゃう。
「……」
往々にして、ことばが出ませんね。
(そうか、だから作品単位での区別がつかないのか)

ええ、藤原も結城も
もちろん未読作品がまだたくさん残っているので
じっくり味わいたいと思うのでした。
願わくば、しばらくの間は
文庫版全集とか出ないようにね!

本屋大賞に上手にケチをつけたやつが優勝? なのかおい

乙川優三郎
とある作品を読んでいて、思ったことが
最近、頭から離れませんで。

つまり、先生
相変わらず
すばらしい作品ですねえ、
最初の読者として
私たいへん感服しました。
けど、あれ? えへ
(自分史上最高の笑顔で可愛いらしく)
藤沢周平っぽすぎないですかね。

……とは、
担当編集者は
言えないと思うんですよ。

なんてったって
趣味で原稿いただく
わけではないんですからね。
仕事ですからね。
お相手の先生即ちクライアントですから。

しかも、この場合
作品として詰めが甘いとか
首尾が一貫してませんぜとか
そういうレベルの
(わかりやすい)ダメ出しではなく

ただ、作品の
(本来慎重に回避せねばならない)
藤沢周平色がいつもより強すぎて
結果的に
乙川優三郎オリジナリティーが
薄れているのでは、という
至って感覚的な虎の尾
……言えますか、
もしあなたが担当編集者なら?
という脳内プレイの話なのです。


クライアントの虎のしっぽが
そこに見えているにもかかわらず
わざわざそれを踏みにいくサラリーマンが
もし部下にいたら
それは全力で止めるべきでしょうし
もしそれが嫌いな上司なら
黙ってヒドいことになるのを待って
酒の肴にするほかないでしょう。

つまり、本来は
作家と編集者という関係値を根拠に
蛮勇をふるって編集者が口にすべき問題が
それは無理な話なんだとしたら
……と、脳内でぐるぐる考えていて
ふと閃いたのが
「そうか、だから読者が
 感想を述べるしかないのか」
ということ。


つまり、関係者が言いにくいことをあえて言うのも
昨今は読者の務めなんですよ、という
ここまでが前フリです。


あのすばらしかった本屋大賞
メジャーになって変節してしまった。

とかなんとか
言いがかりをつけるような記事は
黙殺すればいいだけだと思うのですが

どうせなら1点、
たしかに今回2012年の本屋大賞
これまでになかったコトがあった、
そのことに何故触れないのか。
そう思ったんです。

で、ここはいちばん、
本屋大賞ウォッチャーとしての俺が
言うしかないんじゃなのか、と。
(=誇大ナントカorz)


それ即ち

有川浩の「ノミネート辞退」問題

そこに至るまでの経緯は正直、どうでもよくて
(検索すれば「へー」とは思いますけど)

・有志が自発的に応援したい作品を選んで、
 それを内輪で発表する
・その企画をシャレっ気こめて
 「本屋大賞」と呼びましょう

という主旨で始まった“賞”は
元来、辞退とかそんなおおげさなキャラ(の賞)ではなかった
はず。
です。
よ。
たぶんそれはもう、
関係各位がいちばんご存じのとおり。

ではあるのですが、
実態として
お金のニオいをかぎつけたひとびとが
たくさん寄ってきて
他人のふんどしを体に巻きつけるのに
1mmも躊躇しない、
テレビとかいうメディアも
寄ってくるようになって
本屋大賞
その本質は不変でありながら
取り巻く環境は激変しました。

その、象徴的な事件が

有川浩という、多くの読者を持ち、
誰もがその才能を認め
ある意味「本屋大賞」という冠に
もっとも近いはずの作家が
わざわざ辞退した、
という今年の一件だった。

だってさ、
本を愛する人たちから推されることを
辞退する作家、って
何ですかその矛盾。

で、そうした一連の話に触れずに
変節とかなんとか言われてもねえええ?
ええ、本屋大賞にケチつけるなら
まずは有川浩コメントのひとつでも
とってから言わんかい。
そう思うのでした。

140字におさまらなかったRT @ToshioOkada 読んでない本は資産ではなく、負債なんだ


Twitter上のとあるつぶやきを
発言者である岡田斗司夫本人が
ブログ(ゼネラル・プロダクツ)エントリにまとめていますが
その感想−というよりは、
本当は私もtwitter上でさっくりRTしたかった。
というところから、話は始まるんです。

「本を買う」のは円という「経済通貨」での支払い。「本を読む」のは「時間通貨」での支払い。じゃあ、「まだ読んでない・いつか読まなきゃいけない蔵書」っていうのは、「時間通貨の支払い待ち」の負債じゃないのか? 「いつか読まなきゃ」と気になってる状態というのは、「支払いの利子だけ払ってるけど元本が減ってない状態」じゃないのか?
 −蔵書は負債である http://okada.otaden.jp/e74092.html

私自身はこのときの発言を「良い比喩だな」と思ったのですが
字面だけを抽出するとずいぶん功利的に見える(よね?)のが
いやいや、そういうことじゃないんだって! と
あきらかに蛇足またはお節介に相当する文章を
脳内で書いては消し、書いては消し。
したものの結局140字に収まらず、かつタイミングを逸してしまったので
本来tweetして吐き出すべき何かが消化されず
体内に残って気持ちが悪いんです。

というところで以下、書けなかったRTを嘔吐させてください。
うぇっ。おべっ。げぼっ。

今年、出会った本ベスト10
という企画を−文章化する、しないは別として−
ずっとやっていますが
2009年、間違いなくランクインする作家のひとりが佐々木譲。
「笑う警官」「制服捜査」ぐらいしかそれまで知らずにいた作家の旧作を
見かけるたび、読むようになったのは
作品そのものが持つ娯楽性と
作家と作品世界の不即不離な距離感とが
心地よく読めるから、という
実作への評価はもちろん
Google Library Project云々を調べている途中で遭遇した
彼のブログエントリーに心底共感した、という
作家への評価も大きな要因になっています。

世の中には著作権について、わたしとは絶対に理解し合えないひとがいるのだなと感じる。「本」とはどんなものなのか、という根本の部分で、わたしとこのひとたちとでは認識がまったくちがうのかもしれない。
たとえば、読書好きのひとたちのあいだを次々と渡っていって、二十年か三十年後、モロッコの木賃宿のロビーでついに最後の綴じ糸も切れてばらばらになる、というような本と、その本の生涯を、わたしは理想のひとつとして夢見る。でも上記対談のひとたちはちがうようだ。モロッコまでの旅の途中の読者からも確実に印税が入ってくる機能を持った商品ができたとき、それを理想の本だと思うのだろう。
 −GLP和解参加をニュースで http://sasakijo.exblog.jp/8213926/

著作権法の解釈とかフェアユースとか、
“議論のための議論”においてさんざん語られているトピック周辺で
実作者(特にいわゆる“小説家”)が言及する例は本当に少ないのですが
この、佐々木譲の発言は
「本を読んで育ってきたひとが本を書くひとになった」
ケースにおいて
もっとも誠実な態度ではないか、と個人的には思うのです。

※さらに個人的にいえば
・上記引用部の“モロッコまでの旅”は無償の行為/好意の連鎖でいいけど
・新古書店などの“商行為”は著作権者への還元があっていい
と考えるのですが、それはまた別の話

そして何故、俺は彼の考え方に共感するのか。
を考えるため
「いちばんイヤな考え方って何だろう」を想像すると
・電車の3人掛座席1人前スペースに腰をおろして
・しばらくすると隣客が降りると、間髪入れず
・自分の荷物で2人前スペースを確保しようとする
……そんなような。
精神上の贈り物を先人からもらった過去があるなら
人は誰しもそれをまた次代へつなぐ、
ノブレス・オブリージュを負うべきなのに
そのことをわかろうともしない。
そんなひとにはなりたくない。

というところで、あらためて頭に浮かぶのが
14歳のころから拳拳服膺している
内田百間の「忘却論」一節。

何の学問でも始めはぎゆうぎゆう詰め込まなければ後の道が通じない。
詰め込め、詰め込め、詰め込まざれば中は空つぼである。
うんうん、うなされる程詰め込め。
(略)
気の弱いのが、先生そんなに詰め込まれても、
ぢきに忘れてしまひますと訴へる。
構はない。
覚えてゐられなかつたら忘れなさい。
試験の答案に書くまで覚えてゐればいいので、
書いてしまつたら忘れてもいい。
しかし覚えてゐない事を忘れるわけには行かない。
知らない事が忘れられるか。
忘れる前には先づ覚えなければならない。
だから忘れる為に覚えなさい。
忘れた後に大切な判断が生じる。
語学だけの話ではない。
もとから丸で知らなかつたのと、
知つてゐたけれど忘れた場合と、
その大変な違ひがいろいろ忘れて行く内にわかつて来るだらう。

この文章こそが「貯蓄しなければ」という脅迫観念から
私を解放してくれた記念碑で
(解放しすぎたという説があることは知ってます。知ってますって)
三つ子の魂ではないけれど
しみこんでいるものだなあ。
だって元祖天才バカボンのパパと同い年ですぜ。
読んでから四半世紀以上も
私の魂を救い続けているってすごいよね?

……以上が
Twitter岡田斗司夫発言を目にした瞬時に
Amazon流にいえば“あわせて読みたい”と
私の読書歴エンジンがレコメンドした内容だったのでした。
ああ、吐いてちょっと楽になったなう。

宮部みゆき「孤宿の人」文庫化まで4年以上待った甲斐あってたいへん傑作な件。


宮部みゆきの時代小説を語るとき
読者の私の頭に常にあるのは


たとえば人情という概念を小説にしようとするとき
現代日本が背景だとそらぞらしくなってしまう。
人情が最早フィクションの中のものになってしまったから
……という主旨の、作家自身の述懐です。


もう現代モノのフィクションは書きません。
と続いていたはずの発言の出典とか時期は
例によってきれいさっぱり忘れているのですが
「楽園」「名もなき毒」が
その発言の後に書かれていることは確かで
つまり、真正面から受け取る必要はないが
作家が言いたいこともよくわかる、
あるいはその逆もまた真なり。

誤解を恐れずにいうなら、宮部みゆきの時代小説は
“小さな”物語であることを自ら選択していることが多く
−正確にいえば、そういう作品しかこれまではなかった−
てっきり「孤宿の人」も
人と人の間に生まれる物語を丁寧に描いたものなんだろう、と
思っていました。
ええ、単行本から文庫になるまで待っていた
4年半の間、ずっとね
< 文庫落ちまであまりに長かったことを根に持っている


ところがこれ、架空の小藩を舞台にした
“人と人の間に生まれる物語”でありながら
その背景の
封建社会/中央集権制度が抱えるジレンマをも
同時に描き出した、実に“大きな”物語でありました。


念のために申し上げておくと
物語の大小即、価値の高低とは私は思っていません。
徹底して人の哀しみを描いた「龍は眠る」「クロスファイア」などの初期作品群と
「火車」から「理由」「模倣犯」へとつながる、
日本の現代社会の病巣を描いた作品群のどちらが優れているか、
比較なんてできるもんじゃないよ。というのが私の立場なので
「孤宿の人」が
宮部時代小説初の、社会を描いた“大きな”物語であったことよ。
というのは
良い意味で裏切られたー。驚いたー。
と、とにかく言いたいだけなんです。
ま、付け加えさせていただくなら
すげー。傑作だー。待った甲斐があったー。


宮部みゆきコミュニティ内の
作品人気投票的なトピックで常に上位に位置する、
「蒲生邸事件」。
2.26事件という
日本がかつて通過した、歴史の暗い部分を背景にすると
プラトニックな恋愛が実際以上に温かく輝いて見える、
それが人気の秘密ね。などと思っているのですが


「孤宿の人」も構成的には同様で
暗い背景に、ほのかな光が浮かび上がっている・の・ですが
何がスゴイって
その背景にリアリティーを持たせているのが
−江戸時代の実際の事件事象を丹念に追うことではなく−
作家が創造主となって
「丸海藩」という世界を構築するところから始められていること。
そらー連載の途中で
ああもう無理ですやめさせてください、と
宮部せんせが言いたくなった気持ちもわかるわ、と。


ブレイブ・ストーリー」のファンタジー世界には
作家が言いたいこと/描きたいことがまず初めに存在して
そこから演繹的に形づくられた“虚構”のにおいを
(私は)感じるのですが
時代もの書き手としての宮部みゆきの筆力が投入された
丸海藩のリアリティーは
物語を読み終えて、作者が伝えたかったことは何ぞや。
と考えてからはじめて
舞台が虚構であることに思いが至る、という……
総合するに
これまでの宮部作品のすべてが
血となり肉となることで生まれた集大成なのだ!


文庫派です、というのは実は読書コミュニティでは肩身の狭いものなのですが
と最後にボソッとつぶやきますけど
(作家の生活基盤を支える単行本を買わないなんて、という忸怩たる思いとか)
(俺だって早く読みたいよ、というヤツ当たり気分とか)
(でも同じ金を出すならそれで2冊3冊読みたいのよ、とか)

これは待った甲斐が、あったわ。

「知っている」と「知らない」の差


今野敏「安積班」シリーズを
なにかの義務のように、4日で10冊読んで思ったことは

・そういうふうに読むもんじゃない
・テレビ版見たこと無いけど佐々木蔵之介はナイスキャスティング
・その他のキャスティングについてはノーコメント
・でも須田=塚地は悪くないかも、と徐々に思い始めた
・作家本人のテレビ版への距離感は、かなり幸福な部類
・シリーズものの宿命で中だるみしている巻もありますな

さすがにくだびれたので
気分転換に糸井重里南伸坊の対談「黄昏」を読むことに。

対談本が好きなのは
ときとして、登場人物の思いもよらない引き出しが
目の前にニュッと現れることがあるからなのですが
ま、このふたりの場合は終始、意識的にダラッとしているので
これといって新たな発見も無く……。

ネットに抄録版が連載されていて
ちょうどその部分を読んだときにも感心したくだりが


糸井 で、うちの社員のひとりが、ヘレン・ケラーのことをぜんぜん知らなくて、笑いものになってたんだよ。「なんか、戦争系の人でしたっけ?」とか言ってるからさ。
「戦争系」(笑)。そりゃ、ナイチンゲールだ。
糸井 あげく、「ヘレン・ケラー? ケレン・ヘラー?」とか言ってるからさ、笑われるわけよ、常識の欠けた人としてさ。
うん(笑)。
糸井 けどね、オレは、思うわけ。みんな、ヘレン・ケラーについて、いったいなにを知ってるんだと。笑ってる人も、笑われてる人も、知ってることにそれほど違いはないだろうと。
うん?
糸井 だからさ、要するに、みんながヘレン・ケラーについて知ってるのは、「三重苦だったんだけど、それを乗り越えてがんばった偉い人です」と。そのくらいのことでしょう?
うん。
糸井 そこまでを知ってる人っていうのはね、そこまでしか知らない人でもあるわけ。そういう人がね、ただそれだけの知識から「知ってる」という立場に立って、「知らない」人を笑い飛ばしていいものかと。

<ただそれだけの知識から「知ってる」という立場に立って>
<「知らない」人を笑い飛ば>す行為って
ヘレン・ケラーのような固有名詞に限定されたことではなく
なにかとやりがちだと思うのですが
(なんたらバッシング騒動なんて全てがソレだわね)

知っているワタシと
知らないアナタの違いなど、ほぼ無意味に等しい。

という認識から出てくるのは
侮蔑ではなく、疑問符であるべきで
「なんでそんなことも知らないの?」と言ってオシマイ。ではなく
私がいま持っている知識をリセットして
知らないひとの目でその物事を捉えるとしたら、
どうなる? というシミュレーションのトリガーとして
「知らないひと」の存在をありがたく受け入れるべきなのでしょう。

……と考えてくると、たとえば
上司とはかくあるべき。みたいなビジネス書で
くだくだしく述べられていることに近い含蓄を
このバカっ話対談からも掬いとることはできるわけですね。

以上、アホアホ言うほうがアホやって先生も言うとったわ、アホー。の巻。
(おまえ今またアホ言うたやんけ、アホー) ← 関西の子どもたちの日常風景

怖いよー永井するみ「欲しい」


日曜18:30に「サザエさん」。という習慣を失って久しい私は
日曜デイタイムはTVで競馬ウォッチ。という習慣も
徐々にではありますが、薄れつつあって
だから、その日U局の競馬中継を見ていたのも
そして裏番組のザッピングをしていたのも
悪夢のような偶然が重なり合ってのことなのですが
去る6月、CXザ・ノンフィクション枠でOAされた
「漂流家族 竹下家の9年間」(の前編)は
リアルタイムで目撃しておりました。

あまりといえばあまりの内容に
翌週の後編OAを見る勇気がもてなかったのですが
結局ネットでも相当な盛り上がりをみせたこの番組、
さまざまなブログエントリーに
きっちり内容が再現されていることもあって
http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20090705
まあ、もう、おなかいっぱいっす。かんべんしてください。

という、思い出したくもなかった(ほめてます)
テレビ番組が頭をよぎったのは
永井するみの「欲しい」を読んだから。

優也と一緒に面白おかしく暮らす。
ありさの願いは、ただそれだけ。
(中略)
金のために朝から晩まで働く? 考えただけで気分が悪くなる。ありさ自身も働きたくなかったし、優也にも働いてほしくなかった。二人でいられる時間が減ってしまうのがいやだった。

私たち(とあえて複数形を使いますが)が
彼ら(含、竹下家の両親)に抱く感情でいちばん近いのは
まったく理解できない教義を信じている宗徒を見るときの
異物感だろうと思うのですが

でも、彼ら(含、優也/ありさ)の信じる教典は
欲望
であって
まったき他人事ではない、わけです。
少なからず、彼らと同じDNAが自分にもあるのではないか、
その“他人事でない”感が……怖いわけよ。

派遣会社を営む由希子。妻子ある男と付き合う一方、ホストを呼んで寂しさを埋めていた。恋人が不慮の死を遂げ、真相を探り始めるが――。鮮やかなラストに目をみはる傑作長編

いやいや、恋愛小説だと思って読んでいたら
ミステリーの体裁をとっているんだね、ふーん。となって
登場人物の“すぐ隣に居そうなリアリティー”と
彼らが信ずる“欲望”への際限ない傾倒が
不気味さとなってひたひたと押し寄せてくる、
ホラーじゃんこれ。
怖いよー。