編集者が編集するのは本だけじゃない! ○○もだ!

ウェブも電子書籍もDVDもCDも編集しちゃうよでもいちばん仕事多いのはけっきょく紙

38.紅葉山荘



初出:1954年オール讀物2月号
参照:初出誌
時代設定:1865年10月
 「ここのところ新撰組は、何も仕出来すことなく、ねむっていたようなものなのだから」
 (=新撰組の1864年は池田屋事件禁門の変など多忙)
 「壬生に出入するように成ってから彼は鞍馬天狗と名乗る浪人者のことを聞いたのであった」
 (=新撰組屯所は1865年3月壬生から西本願寺に移転。通称としての「壬生」は1865年夏であれば普通に生きていたと考えられるか)
 「明日は、山を越え高雄まで行って見ろ、名物の紅葉に色がつき初めたところで」


この短編のモチーフは3年後の中編「41.夜の客」で再登場しますが
あっちとこっち、最大の違いは
とある局面に立たされたとき
ひとがどういう感情に支配されるか−の描写でしょう。
本作では端的に「憤り」としていい場面が
後に書かれる作品では「哀感」に置き換わっています。

作品の奥行という観点から
こっちよりあっちに軍配があがるのは自然なのですが、それは
こっちの短編を成立させている細部の味わいが見劣るという意味ではありません。

 政局の話を、この男はしない。他のことでも、自分の意見を強く持出そうとしない。最初、警戒していた市之助の方で意外に思ったくらいであった。しかも話題に、ゆたかであった。京の風俗の話、寺々の話、それから剣道の名人の話。聞いていて教えられることが多い。苦労人だし、市之助などより、ずっと広い世間を見ている点が、聞いている間に感じられて、立つのを忘れたようである。


こう引用すると、何だ鞍馬天狗礼賛orz
みたいな気分になったりもしますが(……)
どちらかというと、上記引用文中で鞍馬天狗に対面している、
市之助という一介の会津藩士のたたずまいが
なかなかイイ感じなの。

そもそも鞍馬天狗の何が無敵かって
剣技とかオトコマエとか、そういうことじゃないんです。
彼の人間的な魅力に
登場する人間がことごとくヤラレてしまうっていう
そこがファンタジーとしてのシリーズの眼目でありましょう。


「絶世の美女」とか「誰もがふりかえる美少年」とか
そうした要素を文章化する際
作者の考える最大公約数が
読者のそれと一致しないと悲しいですが

「人間的な魅力最強」って、そう考えると
ヒーロー当人を一切描かなくとも
作中ヒーローに対面する登場人物を描くことで
表現可能なんですよね。
ええ、まあ、いまごろ気付いたんですけど。

だ か ら
鞍馬天狗をビジュアル化する際のキャスティングって
なんだかんだいいつつ外見にこだわりがちだけど
そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ、と。
言っておきたいんですね。
(冒頭で引用した佐多芳郎画伯を貶める意に非ず)
(全体にむっちりしてる佐多画風はむしろ好きです)