電車遅延とウェブ媒体に校閲工程が無い話の間に共通点はあるか(←無かった
お。
と思ったことがふたつ■□ありまして
それぞれについて感想を書いていくと
どこかでそいつら■□が出会うんじゃないか。
はたして出会えるかっ?! という
つもりで書き出したんですガー。
■
イザというときにこそ
本質は顕れる
と昔からいうとおり、
鉄道機関(非人格)が
ふだん何を考えて
動いているのか、が
もっともわかるのは
「電車に遅延が生じた」
ときではないか、と
さいきん思ってます。
私がこの誤用を見て、まず懸念したのは、記事が校閲の目を通っていないことだった。...氏の原稿は、アップしたまま校閲を経ないまま印刷所に送られたことになる。これは、思いのほか重大な話であるのかもしれない。
と、
「媒体としての週刊誌」の
劣化を示す事例として
校閲過程の不在を挙げていたのですが
(同意します)
ウェブ媒体には校閲機能が無い
というエピソードに続いて
……そうね。
……だけどさ。
と反論したくなったの。
■
電車が遅延すると
ただいま○分遅れて運行しております
お客様にはご迷惑をおかけして
たいへん申し訳ありません
とか言うじゃないですか。
あれってたとえば
朝7時00分に出発するはずの電車が
7時20分発になっちゃってるんだ
ゴメンゴメン。
ってことですけど
7時15分の今のぼくが知りたいのは
7時20分になれば電車来るのね?
ということなんですよね。
もちろん
ダイヤ乱れの規模と
やって来る電車の混雑度は
比例しますから
「20分遅れています」は
無意味な情報ではないのですが
鉄道会社が重視するのが
ぼくら利用者であるなら
「あと5分待って」
が優先されるべきじゃ?
という気がしてならない。
「20分遅れ」という物言いは
運行ダイヤを
主人公に据えた物語において
はじめて出てくる発想ではないか。
つまり、利用者は
てっきり自分が主役だと
思ってしまっているものの
真のご主人さまは
運行ダイヤ!
なんでは説。
□
コンテンツを公開する
前工程としての校閲は
ウェブ媒体には無い、は
だいたい正解だと思いますが
その代わり、紙媒体に無い強みが
出して間違ってたら訂正する
というスピード感
のはず。です。よね?
校閲が無いのよー
って嘆いたからって
無いもんは
ワケあって無いんであって
(=カネが無い)
むしろ前向きに
俺たちは校閲を
ユーザーにゆだねている、
そうさそれがソーシャルデバッグ
(キリッ
即ち
媒体にとっての第一義をどう考えるか、
コンテンツの「完成」はいつか、
etc., etc.
完成形に持っていくプロセスが
旧来型媒体と違うのは当然ですよ。
そう言い切っちゃえばいいんじゃないか。
ええ、もちろん
個人の見解なんですが。
著者原稿の受け渡しからhtml化、
アップロードまで
を「担当者の仕事」と定義して
公開後のコンテンツケアは
「全員の仕事」
という発想の導入とか
誤りに気づいた人間が修正できる体制整備とか
データのバックデートが起きないような
情報共有とか
これはこれで大変なんですけど
「校閲ないから」と
開き直ったり萎縮したり、よりは
よっぽどいいと思わん?
■
鉄道会社の第一義は
俺たちには無い。
と自覚することが
ダイヤ乱れにおける
平穏な心のありように
少しは寄与するんじゃないか、
という話と
□
ウェブ媒体にとっての第一義を
あらためて考えることが
建設的な意見の始まりじゃね?
という話に
交錯するところがあるかと思ったら
■□
意外に交わらねーんでやんの(oi