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45.天狗が出た



初出:1958年日本経済新聞
参照:日経新聞縮刷版
時代設定:1864年10月
 「その浪人者は鞍馬天狗という名を名乗って、おかみをおそれずに京都の町に出ては、大胆なことをするので新撰組や見廻組のだんながたが...」
 (=見廻組の発足は1864年4月。1865年秋は「46.西海道中記」によると京都に不在)
 「天気のよい秋の日に子供たちは松たけをさがしに、山にはいりました」


いまだに書籍化されていないのも道理、元旦の新聞に「少年読物」として掲載された
僅々6000字程度の掌編です。

鞍馬天狗が登場するのは物語中の時間軸に沿うと数分〜数十分でしかありませんが
語られているテーマを強いてそれっぽく言えば「“評価される”とは何か」
……いやー強いて言うねえ、俺。


作品では2種類の鞍馬天狗像が提示されます。いわく、
大人にとっての(公権力を否定する不逞人物としての)虚像と
子どもにとっての(困ったときに助けてくれた優しいおっさんとしての)実像。

読者は(ま、あるいは「私は」)基本的鞍馬天狗にシンパシーを感じているため
子どもの実感が正しく
作中の大人たちのいわれのない思いは間違っている!
つい、そう思いがちですが
   ハーメルンの笛吹きの真価が理解可能になるのは
   奴に子どもを拉致されるというインシデントがあってから、
   というようなわかりやすいケースと異なって
作中の大人たちが子どもたちの主張を納得するための手掛かりは
格別用意されません。
大人たちは、物語が終わった後も始まる前と全く同じイメージを
天狗に対して抱き続ける。イメージをあらためる理由は、どこにもない。

これはつまり、現代の私たちのすぐ隣に
鞍馬天狗が居たとしても
彼のほうからのアピールが無いかぎり
気付くことはできない、という意味でしょうか。
……たぶんそうだな。
あんなに真摯に日本の明日を憂える好男児なのに?
無私の心であらゆる困難に立ち向かっているのに?
ええと、あとは、なんだ。なにしろ……あんなイイヤツでも?
たぶんそうだな(再)。

彼は「〜してくれている」けれど
それは私たちが「頼んだわけじゃない」。
だから
ひっそり実行に移される善行に私たちが気付いて
評価するタイミングはえてして遅すぎる
しかるに/そうであっても/かるがゆえに(接続詞はたぶん何でも可)
私たちの認知があろうとなかろうと
称賛されようとされまいと
鞍馬天狗は信念に基づいて
−見返りを求めることなく−
淡々と、彼の考える真実を追い求める。

だからこそのイイヤツ。

これは無論、百数十年前の話に留まらず
昨日今日明日の日本でも同じことでしょう。
私たちが「コイツはイイ」と思う判断に
その行為が私たちを利するか否か、が含まれることはむしろ少ない、
見返りを求められると
ナンカチガウんじゃないか、と思うものである。
Viva! 自分には甘く、他人には厳しい私たち。

そうだよジャーナリストは求めてなるものではなく結果論でしかないんだよ。
と、話を(いくら自説とはいえ)(またも)ジャーナリズムに限定してしまうと
評価が目的化している自称ジャーナリストを目にするたびモニョる我々。という
卑近な話題になってしまって残念なので、ここは一番
自分はどこを目指すべきか、を考える指標として
鞍馬天狗の恬淡とした日々を多いに参考にしたいですね(棒