編集者が編集するのは本だけじゃない! ○○もだ!

ウェブも電子書籍もDVDもCDも編集しちゃうよでもいちばん仕事多いのはけっきょく紙

山口瞳の根本思想の芯の芯なるものに共感せざるをえない

数日前
とある流行作家が
とあるツイートをしていたのですが
それが

・自分の意見はこうだ
・それに与しないひとがいる模様
・その発想がしかし、
 どこから来たものだかテンでわからん

という組み立てで
ふーん。
と思ったんですね。

自分と合わない意見の主を
disるような論調でない部分は
えらいゾ。とほめたい感じながら
(それが出来ない人の多さを考えればねー)

その「どこから来たんだ」意見に
限りなく近い意見を持つ私としては
むしろ
その作家先生の発言にこそ
違和感を覚えた、ということをね
とりあえず記録しておきたい。


……という前置きをして
晩年の山口瞳の文章を引用。
(文庫「木槿の花」収載「私の根本思想」)

 いわゆるタカ派の金科玉条とするものは、相手が殴りかかってきたときに、お前は、じっと無抵抗でいるのか、というあたりにある。然り。オー・イエス。私一個は、無抵抗で殴られているだろう。あるいは、逃げられるかぎりは逃げるだろう。(略)かりに、○○軍の兵士たちが、妻子を殺すために戸口まで来たとしよう。そうしたら、私は戦うだろう。書斎の隅に棒術の棒が置いてある。むこうは銃を持っているから、私は一発で殺されるだろう。それでいいじゃないか。

 それでいいと言う人は一人もいない。(略)人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。その通り。私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。

 私は、日本という国は亡びてしまってもいいと思っている。皆殺しにされてもいいと思っている。かつて、歴史上に、人を傷つけたり殺したりすることが厭で、そのために亡びてしまった国家があったといったことで充分ではないか。

 そんなふうに考える人は一人もいないだろう。私は五十八歳になった。これが一戦中派の思いである。戦中派といったって様々な人がいるわけで、私は同じ考えの人に会ったことがない。

 二兆九千四百三十七億円という防衛費を「飢えるアフリカ」に進呈する。専守防衛という名の軍隊を解散する。日本はマルハダカになる。こうなったとき、どの国が、どうやって攻めてくるか。その結果がどうなるか。

 どの国が攻めてくるのか私は知らないが、もし、こういう国を攻め滅ぼそうとする国が存在するならば、そういう世界は生きるに価しないと考える。私の根本思想の芯の芯なるものはそういうことだ。

山口瞳の依怙地な芸風と
「マッチョになれない」性分は
ときに近親憎悪を覚えるほど
私には親しいもので
必ずしも彼の主義主張のすべてに
共感するわけではないにもかかわらず

引用した文章の
甘いといえばこれ以上ないほど甘く
理想主義のロマンチストな考え方には
いいぞ、もっとやれ。
と思わざるをえないのです。

敵が攻めてきて
戦わないでいられるのかおまえ。
と高々と発言するのも

亡びてもいいじゃん。
と卑下して言うのも

どっちもどっち

ならば
エエカッコシイの発言のほうが
かっこ悪いと思う。んだ。

10歳児の居る風景におけるサンタクロース諸問題

そろそろコナマイキ域に到達済な、
10歳という年代の子どもたちは
サンタクロースについて
どのように理解しているのか。

我が家の児童と、その同級生を参照するに

完全否定……1桁%
残90数%……「まあまあ、親が居るって言ってんだから
そういうことにしとけばいいじゃんプレゼントもらえるわけだし」

東京都内といいつつ
ずいぶん牧歌的な学区にしてコノザマですから
もっと世知辛い都心エリアにおいては
完全否定派の比率が高まるのでしょうか。


思えば我が家の児童も
いまや半信半疑を越え
2信8疑ぐらいなステイタスで

2年前までなら
12月のこの時期は
「サンタさんになあ、報告せざるをえないなあ」
というフレーズが
種々のモチベーションに直結したものですが
もうね、さすがに通用しづらいですね。

今、児童の態度に垣間見えるのは
理由不問でプレゼントをもらえる、という
超常現象に対する信仰
   というより
既得権益であるプレゼント入手のため
守るべきルールとしてある
「サンタさん居るよねー」合意
   というような

サンタさんを信じてるなんて
まだまだ子どもなんだなあ幻想
を成就させてやろうという親孝行ごころ。
なのかもしれません。
……イケスカナイな!


なお、この時代の10歳児のことですから
我が家ではNORADのサイトなども公開したうえで
以下のような説明をしています。

・サンタクロースとは個人を指す名詞ではなく
・シンジゲートの名称であり
・彼らの活動には当然、広告営業のような
 収益源が不可欠である
・即ちプレゼントを配る子どもたちの数は
 少ないほうが好都合
・まず「サンタさんを信じない」子どもに贈り物はしない、
 これは当然のこと
・「この子にはプレゼントをあげなくてもいい」という
 情報収集能力は侮れないのである
・なお、希望するプレゼントを明言するのは
 子どもの自由だが
 そのとおりのものが届けられるかどうかについて
 親である我々は関知しないので
・クレームはサンタクロースに言うように。


ところで
今年、10歳児が希望している某製品の
色:ブラック
が、既に製造中止だかで
入手できそうにないんですよね。
色:ピンク
なら流通しているんですが。

迫りくる納品期日!
弱るサンタクロース代行業者(=俺!

「黒は手に入らないからピンクでどうだろう、って
 サンタさんが言ってるそうですよ」
と10歳児に伝えるうまい方法はないですか。

文庫化待つってひとも単行本買ってほしいんだけど■という声に過剰に反応する事案が発生

わーおもしろーい。
痛いところを衝かれた人間の典型だねー。
うふふー。

と笑っていただける範疇を
超えてるんじゃねーのか俺。
と思ったのは
新刊書店に勤めるひとであれば
何の不思議もない発想な
「文庫でなく単行本で買ってほしいんだけど」
というだけのフレーズに対して
脊髄反射で
自分の口からことばが次々
飛び出てきたからで

それはあたかも
あ、あのときは
あ、アカウントが乗っ取られてたんだぜ。
と言いたくなるような
白昼夢のような出来事でした。


まあね
目の前にこんなに面白い
横山秀夫待望の新刊が
宮部みゆき畢生の大作が
高村薫の合田雄一郎が
手ぐすねひいて待っているにもかかわらず
「早く文庫化しないかなあ」
とかいっちゃってる我々に
肩をすくめたくなるのは
理解できるんです。

でも、われわれ

■文庫待ちクラスタからひとこと
申しあげたい。
・たとえば1万円ここにある
・全額を本に使っていい
・単行本なら4~6冊買える
・文庫本なら12~15冊買える
・新古書店に行けば30~50冊買える
というようなシチュエーション。
「古いというだけで」
「同じ商品が値下がる現実」
そこに
疑問を抱かざるをえない時代のわれわれは
「最も高い価格であえて購入する」行為には
なんらかの葛藤を経たあとで
結論を出さねばならぬ。
それが真摯な態度というものにあらずや。
……でしょう?

すなわち

・この作家さんに次作も書いてもらいたい
・この本屋さんにつぶれてほしくない
・この本をいますぐ読みたい

そういうよっぽどの理由があれば別、
なければ文庫化を待つ。
2年でも3年でも4年でも。
ご、5年は待たされ過ぎかな
それがわれわれ
文庫待ちクラスタの矜持(キリッ

 上で挙げた
 ・この作家さんに次作も書いてもらいたい
 ・この本屋さんにつぶれてほしくない
 については本題から離れるので
 手短にすませますが

 作家という職種も
 新刊書店という業種も
 絶滅危惧種というべきであり
 その保護施策が
 国家の税でまかなわれる日も
 ひょっとしたら来ちゃうんじゃないか。

 というぐらいながら
 とりあえず
 「本を読むのが好き」な人間が
 自分で出来ることがあるとすれば
 「本を手にする喜びを与えてくれる、
  作者や新刊書店に
  金で感謝の意を表明する」
 ということ。

 ……ではあっても、ですよ。
 単行本をひととおり店頭に並べて
 「ほどよきインターバルをおいてから」
 文庫化する、それによって生ずる収益が
 少なくとも作家の懐に与えるインパクトは
 無視できるほど小さなものではない、
 という点。

 高いの買ってくれるとうれしいって
 小売視点はわかるけど
 たとえば俺はビールしか
 絶対に(いいか、絶対にだ)買わないけど
 世の中では発泡酒だの第三のビールだの
 デフレ傾向が不可逆に進んでいる。
 自分の取り扱う商品群を
 神聖視するよう期待はできないのは
 どんな業種でも同じ、という点。

 いずれも
 「そーなんだよねー」
 ではあり
 だからこそ
 絶滅危惧種という声も出る。
 ってまあ繰り返しになりますが、
 それはまた別の話。
 (ぜんぜん手短くなかった件)

■「この本をいま読みたい」問題
面白いに決まっている本を
たとえば3年とか、待ち続けられるのか
という疑問の裏側には
「すぐ読んでる俺のほうがエラい」という
優越感がひそんでいる、いいや、
否定したってわかる、
なあみんな、そう思うだろう?
(そうだそうだ)
(共感の声)
(文庫待ちクラスタ・決起集会より)

だけどね、あなたね
たとえば3年間ずっと
おもしろいんだろうなあ
読みたいなあ
おもしろいって盛り上がってるしなあ
うらやましいぜ
早く文庫にならないかなあ
と思いを募らせて
それが遂に叶う瞬間の喜びを
あなたたち単行本派は知るまい?

3年待って
しみじみヨカッタ本を
読了する瞬間の
その本の重さは
あんたたち単行本派より
俺たち文庫化待ち派のほうが
待ってた時間分、重いんだよ。

と言いたくなるぐらいには
耐え難きを耐え
忍びがたきを忍び
それが快感に変わる
……という
ああそうさ、俺たちゃ変態さ。
(変態で悪いか)
(怒号)
(歓声)
(嬌声)
(等々)
(同上決起集会、
 ここから先、字がつぶれていて読めない)

「おもろいは善」という大阪国の国是を考えていてたどり着いた地をふと見まわしたらそこはBadlandでした?

初まりは単なる

「おもしろいは善」「おもしろくないは悪」

判断軸って存在しますよね。
というレベルの、
ツイートへの返信だったのに
変なスイッチ入ったな俺、
という経験を今朝がたいたしましたので
謹んでご報告申し上げる次第です。

あるよね、そういう判断軸。
というか、あります大阪国には。

以前誰かがしゃべっていたか
書いていたのを読んだか、忘れましたが
はげしくうなずくあまり
あたかも自分で考えたかのように言いたいぐらいだ。
という説に

大阪国のヒエラルキーにおいて
頂点に君臨するのは“おもろい奴”である

というのがあります。

これを裏返すと
“おもろない奴”は存在自体が罪
という結論になり
そうした国情は
他国民視点では
至って酷薄に見えるであろうことは
自分が大阪国ネイティブだから
あまり気にならないとはいうものの
自覚はあります。

大阪国のヒエラルキー

つまり、クラスでいちばんおもろい奴が王様
なのですが
クラスでまるでおもろいことを
ない/言ない奴も
自宅においては
「うちのおにいちゃん、
 いっつも冗談ばっかり言うてる」
と妹や母からは一目おかれる存在で
(実態は学校で聞いたおもろい奴のおもろい話を
 コピペってるだけにせよ、です)
家庭のおもろいピラミッドでは
彼が頂点にある。

一方、その家庭ピラミッドで仮に
最下層に属するのが母親だとしたら
(いうまでもありませんが「おかんやめてくれ」と
 子どもを絶望の淵に叩き落とすような
 破壊力を持つ“大阪のオバハン”ばかりが
 彼の国の住人なわけではありません)
(リズム感に乏しいアフリカンだって
 陰気なイタリアンだって
 チャラいゲルマンだって居るようにね)
(居る……よね?)
その母親も
母親コミュニティ内では
ピラミッドの上を目指している。

そう、「おもろい者は善」ヒエラルキーとは
誰もが「あいつよりは自分のほうがおもろい」
と見下ろせるピラミッドを探求する、
修羅の国のことなの。

大阪国国王のアグレッシブネス

このように考えてくると
大阪国の現国王が非常に攻撃的で
マウントポジションを取るか・取られるか
でしか、物事を見ることができない
品性の持ち主なのは何故。
という他国民のみなさんの疑問に
お答えできるのではないでしょうか。

常在戦場という環境が
すべての人間を彼のように仕立て上げる
わけではない・とはいうものの
彼の行動原理は
ブルース・スプリングスティーン
1978年に

Poor man wanna be rich
Rich man wanna be king
And a king ain't satisfied
'Til he rules everything

と歌った文句を悲しいほどなぞっていて
上ヘ行カネバ殺ラレル
という「追われている」切迫感に満ちています。
(よねえ?)

大阪国国王という地位には安住できぬ、
我は隣国の王たらん。そのためには
老いたる王の膝下につくこともまた厭わない。
……みたいな昨今の動静を見るにつけ
上で引いた、
ブルース・スプリングスティーンの曲タイトルが
「Badlands」
である、という事実がね
ぜんぜんシャレになってないよね。
そう思いました。

トーハン「2012年 年間ベストセラー」文庫ランクの集計が恣意的で弱った件

年末恒例風物詩であるところの

トーハン「2012年 年間ベストセラー」
(集計期間=2011年12月~2012年11月)
が発表されまして
 総合1位は「聞く力」(阿川佐和子著)、
 文庫総合1位は「ビブリア古書堂の事件手帖」(三上延著)の3点。
ってシレッと書かれていたので
危うく見逃しかけましたが
3点? ああ、足して1位か。
……ってなんだって足しちゃうんだよ、おい。

順位 作品名 著者 文庫レーベル
1 ビブリア古書堂の事件手帖(1~3) 三上延 メディアワークス文庫
2 1Q84 BOOK 1~3前編・後編 村上春樹 潮文庫
3 プラチナデータ 東野圭吾 幻冬舎文庫
4 聖女の救済 東野圭吾 文春文庫
5 少女 湊かなえ 双葉文庫
6 悪の教典(上・下) 貴志祐介 文春文庫
7 ツナグ 辻村深月 潮文庫
8 三匹のおっさん 有川浩 文春文庫
9 贖罪 湊かなえ 双葉文庫
10 ソードアート・オンライン(1~10) 川原礫 電撃文庫


発行年不問、
集計期間中の売り上げベストがこちらになります。
という表向きの基準も
プレスリリースはとりあげられてなんぼやさかい。
という本音の部分も
分かることは分かるのですが
ランキングってそういうものかい?
2位は6冊
6位は2冊
10位も10冊
ほかのタイトルは1冊ずつの成績ですよね?
団体戦なのか個人戦なのか、どっちやねん。
と、釈然としない自分が居ることも確かなので
しょーがないから

■私的「2012年 年間ベスト」
を考えてみることで
このモヤっと感を払拭しようと思ったんですまる。

作品名 著者 出版社 実勢価
1 村田エフェンディ滞土録 梨木香歩 角川書店 105円
2 いしいひさいち 仁義なきお笑い   河出書房新社 1260円
3 鞍馬天狗全集 7 大仏次郎 中央公論 700円
4 水の繭 大島真寿美 角川書店 105円
5 きりこについて 西加奈子 角川書店 315円
6 落葉・回転窓 木山捷平 講談社 1575円
7 泡坂妻夫引退公演 泡坂妻夫 東京創元社 4830円
8 死者たちの夜 結城昌治 角川書店 105円
9 岬一郎の抵抗(一)~(四) 半村良 講談社 各105円
10 つばくろ越え 志水辰夫 新潮社 704円

毎年のことですし
なにしろ自分のことですから
そこに驚きはないですけど
古いよね俺のリスト!

というか
本当の意味で「2012年作品」は
ひとつも無いんじゃ……。
そして木山捷平の文芸文庫最新刊は
集計対象期間外の刊行だったりしますが
「出る」って聞いただけで
ここに入るんだようるせえ文句あっか。

「火垂るの墓」をハリウッド風に改変する

「火垂るの墓」がUK映画製作会社に輸出
という報道を見て
んー、そりゃね、クライマックスが
本土空襲な作品はUSには向かないわ。
と思った私でしたが
そこをなんとか!
ハリウッド風に原作××プしたら
どうなるんなら!
と思っていたのでした(=ヒマなの? 疑惑

アレンジしやすいように
原作から限りなく
エッセンスのみを抽出すると

・自分でハンドルできない状勢に追われる主人公(たち)
・運命に翻弄される人間の無力感
・救いはどこに求めるべきか

というぐらいですかね。

なお
何がきっかけなのか、よくわからないのですが
女医か何かの役で
シャーリーズ・セロンをキャスティングしろ。
いいか、絶対にだ。
という声が天から降って来たので(マジ
彼女にアカデミー助演女優賞をとらせる、
というような前提で
脚本をアレンジしてみました。
(別にそこまで好きな女優じゃないんですけど)
(本当なんだ! 信じてくれ!)

・主人公たちの母親ではないほうがいい
・むしろ最初は距離がある存在のほうが
・たとえば仲があまりよくない隣家の小児専門精神科医
・でも実は子どもが嫌いなんですよシャーリーズ・セロン

・主人公の子どもたちの両親が不在のタイミングで
・天変地異が起きます
・やむをえず子どもたちを連れて移動するシャーリーズ・セロン

・せつこ、それ××やない……妹の体調に異変が
・医師としての無力感にさいなまれるシャーリーズ・セロン
PTSDで心を閉ざしてしまうせつこ

・ここでシャーリーズ・セロン
 思い出さないようにしていた、彼女自身の
 幼児期の記憶が甦るのであった
・天変地異が一時的にせよおさまって、すべてはもとどおりに
(ただしせつこは心を閉ざしたままなのだ)
シャーリーズ・セロンの再生を投影するかのような、
 子どもたちの明るい声が聞こえると思ったら
 それがせつこの笑い声だった!

野坂昭如のオリジナルが描いていたのは
翻弄されるっていうのを
他人事だと思っていたら大間違いだよ。
これはあんた自身の物語だよ、
ということだったと思うのですが

一応その辺のニュアンスは
助演女優賞候補のセロンさんに
おまかせってことでー。


……って何だこれ
うへー。
いや、もう我ながら
うへーだよっっ。

本の帯■いわゆる「北上次郎的な惹句」問題

いわゆる、と言いつつ
世の中で私だけが問題にしている感が
ぬぐえませんが
まず「北上次郎的」とは何なのか。
実例を見ていただくのが近道かと。


……ゴミじゃねえよ、本の帯(の一部)だよ。
で、これを見てって言ってるわけじゃ
ないのよ(じゃあ見せんな

新刊時に本に巻かれている、
帯と呼ばれるモノに記される文句は
原則として編集者が考える
ことになっていますが
巻末解説を北上次郎が書くと
彼のテキストから引用するほうが
潜在購買層へ強く訴えられる、と
判断されがちです。

それ即ち
書評家・北上次郎の面目なので
いいことだと思うのですが
結果として、それらは
一定の様式美におさまる、
という現象があります。
それを指して
北上次郎的」と
わたいは言っていて(わたい?

さてそこで(やりなおし

■「北上次郎的」なるものの実例

「読み始めたらやめられない。これは打海文三の傑作だ」北上次郎(解説より)
 裸者と裸者〈下〉邪悪な許しがたい異端の (角川文庫)

ラスト近くでまた涙がこみ上げてきた。いい小説だ。多くの人に読まれてほしい小説だ。北上次郎(本書解説より)
 Run!Run!Run! (文春文庫)

読み始めてすぐ、これはただごとではないと思った。自分はいま傑作を読んでいるのだ、という確信を抱いたのである。北上次郎(解説より)
 しずかな日々 (講談社文庫)

まず、ですよ。
書名や作者名のシャッフルが可能なことに
お気づきですか。

とはいうものの
これらのことばは
作品に接した解説者の
胸の奥のほうから湧いて来たことばであって
後付けの/原稿料換算の
形容詞句ではないことは
実際に、作品を/解説を
読んでみれば納得がいくので

編集者が“帯に有効な”
フレーズを解説文から探すと
(楽曲でいう)サビの部分が
どうしても似てきてしまうのは
それこそが北上次郎の芸風
ということなんですけどね。

もちろん、もうちょっと
当該作品に特化したコメントが
引用されているケースも
ないわけじゃないんですよ?

文芸評論家・北上次郎氏絶賛!「骨太の歴史小説であり、超面白伝奇小説である!」
 高麗秘帖―朝鮮出兵異聞 (祥伝社文庫)

川西蘭はもともとスポーツ小説の名手なのである。その素材として今度は自転車競技を選んだのである。期待に胸が高まるのも当然北上次郎(解説より)
 セカンドウィンド〈1〉 (ピュアフル文庫)

……うん? まあ、そうねえ、
同じっちゃ同じか?

ラストの壮絶な潜入行まで一気読みの快作。ホント、面白かった。北上次郎『OKAGE』(新潮文庫)解説より
 サラマンダー殲滅(上) (光文社文庫)

今回、帯の山から発掘したなかで
いちばんウケたのが
この最後に挙げた、
アクロバチック
としか言いようがない帯でした。
他社作品の解説を使うって何事w


以上をトータルして申し上げたいのは
もうね、こういうのは

北上次郎の専売特許


でイイじゃないか。
ということです。

・書名や作者名を隠せば
 別に「その本」でなくても通用するような
・作品の内容を示唆するのではなく、
 読んで想起される感情の
 模範回答が
 あらかじめ記されているような

そんな、言い回しは
北上次郎本人であれば
私(たち)は許容できる。

だけど
ほかの書評家(あるいは編集者)が
彼のスタイルを真似るのは
-全否定はしませんよ、もちろん。その
 つい使いたくなる気分は理解できるから-
節度が必要であろう、と。
全読書界において
総量規制が必要なんじゃないか、と。

「情痴小説」とは、ダメ男小説なのだ。本書に登場する、泣き虫で、身勝手で、独善的な男たちは我々自身かもしれない、だからこそ、さあ、読め!
 マガジンハウス「情痴小説の研究

競馬がなければ生きられない 当たっても外れても酒を飲んで忘れよう 競馬場こそが人生だ
 ミデアム出版社「馬券党宣言

本人の著作に付けられた
これらの(他社編集者の手になる)惹句は
要するに「本の雑誌」という媒体が
発明した、私も愛してやまない文化
の末席に連なるもの
であるにしても
本人発のソレほどのパワーには
欠ける気が、どうしても、します。


……そりゃまあそうだろ、
形だけ真似ても亜流にしかならない。

というようなことを思うのは
なんだか最近「北上次郎ふう」の帯が
目について・気になったもので。


本家の劣化コピーになってませんか?

ほかの表現は無いか、
 本当に脳味噌をしぼりましたか?

面白さをひとに伝えるため
 新しい方法論を生み出してきた
 先達に恥じない仕事だ、と
 振り返ることができますか?

はっはっはっ、けっこう自分の耳が痛いぞ。
他人のお仕事を弾劾してる場合じゃない、ってか。
ゴモットモ!

意外に正しいはずのみんなの意見につきまして。

マルちゃん正麺なる袋麺の噂は
当然、耳にしていて

売上数の上方修正だの
革新的な製法だの
景気のよさそうな単語とセットなのは
まずはめでたい。
と思うぐらいにはニュートラルな私でしたが
実際に食べてみたら
んー。
どう贔屓目に評価してもフツー。

本当に「みんなの意見」として
これがうまい、とされているのだとしたら
俺はついに「みんな」外かよ。
とうっかり半分ぐらいは思ったのですが

ま、商品名で検索すれば
マーケティングを云々する説も多数あるようで
ちょっと正気に戻ることができました。
いんたーねっつ、ありがとう。


でもさー、と話は続く。


100%マーケティング力だけで作られた
「大好評」って
寡聞にしてその実在を知らんがな、というか

本当はマズいけど広告宣伝によって
ウマいと思い込まされている情弱ども。
みたいなことって
いまどき成立させるのは難しいわけでしょう?

自分の味の好みについての定見が薄いひとに
ウマいと思い込ませて
その結果として
「みんながウマいって言ってる」感を醸成した
のがマルちゃん正麺の大ヒット、
だとしたら
仕掛けた代理店とノッた消費者の
共犯ですよね。

で、それはもちろん
過去のヒット商品の成立事情と
大きく変わるところはない。
ただ、「みんなの意見」と
「自分の乖離」を認知する機会として
インスタント麺という、身近な商品が
良い教材だったのかも、
ということですかね。


そして話題は突然競馬に代わる。

武豊(という、かつて名声をほしいままにした名手)
マイルチャンピオンシップ(という、格とか賞金の高い競争)
勝ちまして
中央競馬に限定していえば」
その格のレースに勝利したのは2年ぶり、
という事実に

  中央競馬しか視野に入れない発言を
  お素人衆がするのはいいけど
  メディアはせめて「中央競馬では」
  という注釈を入れるべきではあります。
  そうでなかったら
  その「空白の2年間」で
  5つもG1勝ったスマートファルコン
  立場がねえよ!←マジギレ

思わず「みんなが感動した」
状況が出来ましたの。

もちろん
同世代-というか、正確にいうと同学年-の
スター・ジョッキーを
デビュー以来ずーっと見てきた者として
感慨は人並み以上にあるんですが
ちょっと面白いな、と思ったのは
そこじゃない。

日本の競馬情報を海外に発信している
アメリカ人ジャーナリストが
その「武豊復活慶祝ムード」に
まるで気づけていないらしいこと。

日本人ではない視点で発する情報
競馬ジャーナリズムで異彩をはなっており
感性が細やかな人物なことは
その書く文章を見ればわかるので

われわれ日本の競馬ファンが
こんなにあからさまに共有しているムードに、
その彼女が気づかないっていうのは

いかに「空気」っていうのが
翻訳しづらいか、という
証左でしょう。おもしろくね?

……話がちらかっちゃったな。

・みんなの意見は意外に操作可能である
・それが可視化される時代ではある
・だが結局操作されちゃう危険は変わらずあり
・それを感じ取れるのは「中の人」だけ
・危機感に発信するのは「中の人」の
 たぶん義務でもある

結論。
マルちゃん正麺は無駄にホメられ過ぎ感
・今の武豊北の湖の晩年が似すぎていてフクザツです

US老舗電子書籍サイトの閉店がらがら報に思う

B&N shuts down the pioneering Fictionwise digital bookstores

という記事を見かけたので
メモ代わりのエントリです。

・老舗電子書籍サイト、Fictionwiseが
 2012年12月4日にサービス終了
・バーンズ&ノーブルに買収された時点で
 なんとなくこうなるってみんな予想してた(ω)
・どのぐらい老舗かっていうと2002年に
 図書館で電子書籍を貸し出す機能を
 実装してたぐらい
・ちなみにここのファイル形式は
 .prcとか.mobi
・基本的にファイルを
 ローカルにダウンロードして
 ユーザーが利用する態様
・サイトクローズまでに、利用者は
1)購入した電子書籍ファイルをダウンロード
2)B&Nの電子書籍事業
 基盤プラットフォームである、
 Nookに同じタイトルを移行して利用
 のどっちか(あるいは両方)を
 推奨されてます

なお、Nookがサポートする
電子書籍フォーマットは
ePubのみなので
当然のように、Fictionwiseで買ったけど
Nookには無いタイトル、
というのもあるわけですが
FAQサイトによると

BN.com is working with publishers to convert your content should you wish to transfer your Fictionwise Websites Bookshelf to a NOOK Library at BN.com.

ニュアンスとしては
版元に交渉するしー。
でも念のためローカルに保存しといてよねー。
みたいな?

……というような、一連の流れは
Kindleのフォーラムにも
RIP Fictionwise(Fictionwise死亡のお知らせ)
というスレッドとして立てられていて、
概して好意的に迎えられている模様。


つまり、電子書籍プラットフォームの尊厳死
の理想形として、このプロセスは
Fictionwiseの名前とともに
語り継がれていくことになるんでしょうか。

もちろん
日本では
某社の某プラットフォームの
クロージングにまつわるドタバタという、
この対極のような
ドイヒー事例があったばかりですが

それって
企業としてとくに珍しいことではないわけで
ぜんぜん他人事ではありませんからね。

「事業おくりびと」事業
の重要性をあらためて認識した次第です。

器の小さな話をしよう

■光景その1
駅で電車を待つ間に
ベンチに腰かけていると
ドン、と隣に座られてね
「なぜもう少し静かに座れないのか」
とその瞬間
早速思うわけですけど
それ以上の問題は
「なぜおまえは自分のカバンを
 膝の上に乗せず
 俺とおまえの間に置くのか」
ということですよ。

意志表示なのはわかりますけどね
「もうこのベンチは定員です」
っていうね。

……お行儀悪いよなあ
こいつが俺の弟だったら問答無用で
頭ひっぱたくけどなあ。
躾がなってませんよご両親。

■光景その2
雨の日、濡れた傘を手に持つのがイヤで
ぷるぷるぷるぷる
ってしずくを振り払うひと、いますよね。
せめて人が周りにいないのを
確認したうえでやりゃーいいのに
その挙句、
ネームでまとめて留めることもせず
半開きのまま
なるべく自分から遠いところまで
傘を離しながら
電車に乗り込んだり。

そういう奴らは
自分が濡れるのは重罪で
自分以外の人間が濡れることについては
意識が無い
という共通項がありますね。

……好かん。

■以上ふたつの光景は
いずれにしても
遭遇すると地味にライフが削られる
という点では同様ですが
微妙に性質が違うと思うんですよ。

その1のケースは
他者の存在を認めたうえで
俺の世界に入ってくるな。
というワガママ。
その2は
他者? 何だっけそれ。
というほどに、自分のことしか
考えちゃいない。


どっちにしても
「それ、感じ悪いからやめなよー」
つって話が通じる感じが
金輪際ないので
ツイートしたりブログに書いたりして
ああそうさ、器の小さい話っていうのは
そんな俺のことさ。

いかなる場所でも開くことのできる、ある種の表紙によって保護され、背と称する一端で固められた、多数の紙葉に書かれ(印刷され)たもの

都内で先日
「いかなる場所でも開くことのできる、
 ある種の表紙によって保護され、
 背と称する一端で固められた、
 多数の紙葉に書かれ
 (印刷され)たものフェア」
というミニコーナーを
(カレンダーの裏で)
こっそり展開している書店を
目にしました。

200点ほどが並ぶその一角で
いまパッと思い出せるタイトルを挙げれば
松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。
書店の棚 本の気配
世界の夢の本屋さん
古本の雑誌 (別冊本の雑誌)
などなど。

つまり、
書物とは何ぞ。
という定義に戻ることで
(いわゆる)リアル書店の
原点を見つめ直そうという主旨、
というか明らかに
「おれたちは電子書籍になんか負けねー」
宣言でしたね、あれは。

たしかにねえ。

(いかなる場所でも開くことができる
 とは限らない)
(サービス提供者の意図によっては
 購入後も保護されている
 とは限らないとわかった)
(ハードウェア的発想で固められた)
(多数の電子書籍リーダーフェア)

といいたくなるような
デバイスの乱立を目にすると、
原点に戻りたくもなる。

しかしこのフェア
惹かれるような奴(=俺とか)は
だいたいのタイトルを知っていて
それでも買ったり読んだりしていないのには
相応の理由があるので
売上に結びつかないんじゃ、
という気もしました。

あとね、どうがんばっても
フェアタイトル覚えるのが無理ゲー。

原作に心酔していた作品の映像化、で思い出すこと

小説の映像化って
とくに和モノの場合
基礎となる演技が痒いので
いっそ実写でないほうがいいです派なんですが
それは必ずしも演者だけが
責任を負うべきものでもなく
なんでああもセリフまわしが
「芝居がかっちゃうかねえ」とかさ。


映像化されることで
原作とは違うメディアならではの魅力を
引き出されて
おお。
ってなることはあるとして
(と言いつつ具体例が思い浮かばない)
(ああ、ボーン・アイデンティティー的な?)

小説が読者に提供した官能
これは間違いなく文字メディアならでは。
と確信を持っていた
まさにそのシーンを
原作と同じ方法論で映像化して
それでいて
原作を超えた感情を
引き起こした作品って
個人的には過去ひとつしか
経験してないんですよね。


デイヴィッド・ベニオフの原作を
25時 (新潮文庫)
スパイク・リーが映画化した
「25時」(2002)。
25時 [DVD]
これ、エピローグが
モノローグな作品なんですけど。

メディアとしての特性上
行間にどれだけの思いを込めるか、は
読み手にゆだねることができるのが
小説の強みで

そこまでの話のナリユキに
踊らされている私なんざ
万感胸に迫っていて
ちょっと突いたら
涙腺崩壊の状態なのに
だからって
そこで朗々と歌い上げられたら
ヒくわー。それはナイわー。
って言い出すに決まっている、
非常にうるさい観客なわけです。

だけど
そんなわがままな観客に合ったスタイルを
作者に代わって創造することができるのも
小説ならではで
つまり、そのシーンを読んでいる私の
脳に聞こえてくる「声」は
代替不可能な、唯一無二のものとして
存在する。


ね。
そういう作品を映画化して
いくら主人公が
名優エドワード・ノートンだからって
(ちなみに既に
 「アメリカン・ヒストリーX」(1998)
 「ファイト・クラブ」(1999)
 を経た後、フリーザでいうと
 最終形態に変身済ノートン)

才人スパイク・リーが撮ったら
いかにもな感じになっちゃうんじゃ?
と油断しながら見始めたんです。

そうしましたら
ええ、スパイク・リーって
職人芸に徹することもできるのかい?
と意外なまでに
原作に忠実な仕上がりに驚いて
最後の最後
エピローグが始まったときの、あの
……ううん。
どうなんですかねえ。

10年前、文字通り放心してしまうような
体験を映画館でして以来
いまだに一度も
(その感動を壊したくなくて)
見直してないんですけど
いま、もし再見しても
あのとき受けた衝撃を
感じるのでしょうか。

ひょっとしたら
たまたまそのときのムシの居所のせいで
むやみに情感が動いてしまった「だけ」で
原作以上のものが
恒久的に映像作品に在るわけでは
実はない
の・かも・しれません。

だとしても
「原作と同じ手法で映像化して
 小説を超えることもできるんだ、
 映画って」
という衝撃は
10年たった今も、薄れることなく
私の中に残っているんですけどね。

図書館戦争って図書館で本を借りるなんて許せん派と複本の自由を我々は守り抜く派が戦争するっていう話ですよね? 真ん中で児玉清がジャッジするんですよね?(=図書館ネタを考えてたら混線した

図書館で本を借りること。
っていう命題は
時間を消費させるという意味で
とくに出版界に生存する人間には
考え甲斐があるものですが

ちょうど
実写キャスティングが発表になったとかで
図書館戦争」の字面を目にしたり
愛読している
WEB本の雑誌 帰ってきた炎の営業日誌
で図書館で本を貸す/借りる行為を
なんとか出版界にとって
有益に換金する方法はないものか
と語られていたりしたので
内科医の待合室で、私も
とつおいつしてました。

ちなみに児玉清役(……)を石坂浩二が務める件は
まあそんなもんだろ、と思いますが
 ※追記 稲嶺司令ではない役、
     だそうですね石坂浩二
博多華丸をどこかで出してもらうのが
いちばん、この作品を推した方への
正しい追悼だと私は思う(キッパリ
もっと言うと、紀伊國屋本店の事務所から
送り出す役がベストフィットではないか。
「(ドヤ顔で)(目を見開いて)(あの声で)
 アタックチャンス


公的施設としての図書館、
という立場は
拙速が党是な現政権党(違うの?)が
多方面で展開して悪評サクサクな
ドラスティックな改悪が
同様に波及してこないともかぎらず

出版状況クロニクル小田氏の持論に
「日本の出版業界を支えてきた
 エロ雑誌、大衆小説、コミック
 という三本柱」
のアーカイブとして
図書館が機能することはない
ってのがあるんですけど
わりと忘れられがちな観点で
しかも
いちばん最初に悪い方向に進むのは
ここじゃないか、という気が
最近するんですよね。

・小説家が「俺の本を貸さないで」
 と言ってみる、という事案が象徴するような
 文芸という業種の
 余命いくばくもない感
・たとえ3,000人待ちだろうと
 貸出予約をすることが
 新刊を読む行為と考える、お読者様による
 本を「定価で買う」行為の消滅
・専門図書が図書館で購入されない
 いわゆるひとつの
 「文明退化の音がする」問題

などなど、いずれをとっても
暗澹たる側面はありますが
それって

_人人人人人人_
ゆるやかな死
 ̄^Y^Y^Y^Y^ ̄

には違いなく
我々は人類の一員として実は
そうした緩慢な滅亡には
鷹揚に対応中なわけです
(=現在進行形


為政者のトンチンカンを制止する
機能が働かないと
本当にメディア良化法が成立して

・図書館が書店の廃業を促進し
・法律が「アーカイブする価値あり」と
 認めたもの以外は入手できなくなり
・表現の不自由が気にならなくなる程度に
 精神活動が死んじゃう

っていう
看過すべからざる死を迎えるトリガーに
図書館はなりえる。

……ええと、結論としては
図書館戦争というフィクションが
あえて避けて通った
メディア良化法
立法化当時の世の中と
現世の今の世の中の類似について、
もうちょっとちゃんと
考えたほうがいいな、俺。

カトケンって呼称で思い出すのは高校の生活指導の先生なんですが

法定速度40kmっていう一般道を
60kmで走ってたら
「はい速度超過20km、
 罰金1まん2せんえんね」
って言われたとしましょうよ。

えっ。

・まさかあなたは
 40km制限で60km出したことないんですか
・ほかのひとではなく何故
 ぼくだけ捕まえるんですか
 (「ほかにもいっぱいおるやんか!」)
・むしろ制限40kmっていう設定が間違っていて
 60kmにすべきじゃないですか
・流れに乗って走らせないと
 かえって危険じゃないですか

etc., etc.
抗弁しても
まあ無理なものですけど
概して腑に落ちません。
いえ、念のために申し上げますが
架空の話ですよ。

現存する規定に対して
「それは守る必要がない」
もうちょっと穏当な表現にすると
「罰則の適用に際して
 バッファがあるんですよね?」
という、暗黙の了解をアテにして
それに粛々と従っていたら
ある時、突然

オマエ破ったナー

って責められる
……何の話をしているのかというと
先日、プロ野球で
・危険球投球として
 投手は退場させられたけど
・実は打者の体に当たっておらず
・打者側チームまるもうけ
っていうシーンがあって
それに関するケンケンゴウゴウが
個人的に共感できないんです。


も ち ろ ん
満場一致で称えられる
騎士道精神に照らせば
 当たってもいないのに
 当たった! 痛い!
とかなんとか、マリーシア
日本人のよく知る野球のココロと
“合わない”のは理解できるし
激昂するファン心理も
誤審改むべしという清廉な皆様の
ご主張もわかりますよ?

だけど
リトルリーグなり
全国高等学校野球選手権なり
その延長上のNPBなり
勝敗にこだわるスポーツ全般において
 当たってもいないのに
 当たった! 痛い!
と主張して
隙あらば塁を稼ぐ行為は
戦いの場のコンセプトとして
むしろ奨励されていることでは?

つまり
ぼくが当のナントカ選手だったとしたら
え? 60kmで走ってたら
切符きられるんですか?
って顔になると
思わないではいられない。

……ちなみに
蛇足を加えるなら
・だから俺は元来
 「スポーツっていいよね」とは
 思えない派
・というか
 「スポーツってそういうもんですよね」
 と思っている派
・突然キレイゴトを言い出す人々に対して
 「驚くよねー」
 と思う派、といいつつ
・実は「そういうもんよねー人間って」
 と思ってもいる派

とかそんな言い方をしてると
生き方に熱がないよって
修造に言われるので

しーっ。

今日の日記の内容はどうか
ご内聞にオナシャス。

(以下蛇足)
 山本夏彦
 人には2種類ある、
 「つかまえる人」と「つかまる人」。
 とかつていっていましたが
 今回の件なんか、驚くほどみなさんが
 「つかまえる人」なことにですね
 おおげさにいえば戦慄しますね。
 くどいようですが
 「だから見逃せ」と言う気はなく
 粛々とお縄をちょうだいしやすんですがね。
 というか、当該野球選手を含め
 ぼくらはその時まで
 自分がどっちかというと
 「つかまえる人」だと思っていて
 それが一変するから
 途方に暮れるんですね。