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16.天狗廻状


初出:1931〜32年報知新聞
参照:朝日文庫版(7)(1981年10月、解説村上光彦)
時代設定:1864年6月
 「家老の福原越後が兵を率いて三田尻を出たそうではないか」
 「例の鞍馬天狗という奴が、やはり京へ戻って来ておる...京へ帰って来たのが、昨日の早朝だ」


本作最大のゴシップは
あの鞍馬天狗が!
恋を!
ずいぶん年下の女性に!
したってよ。という点にある
とはずいぶん言われていることですが
それはそれとして(=冷淡か)
死の描写の詳細さが、シリーズ中でも異彩を放つ作品でもあります。

 お登勢は少し前に自分の男が斬られて死んだのを、嘆きの中に引き取っていた。死ぬというのは、その人がいなくなるだけではないのだった。皮膚の色が青黒くなり、美しい体の弾力がなくなり、目の生き生きとした光が濁り、唇の色が変り、もう、まったく別の人間のようになることなのだ。お登勢があんなに愛し、あれほど好もしく思った船曵休之助でなくて、別の醜い男の体なのではないか。そう疑ってみたくなるほど、死というものは呪わしく忌わしい作用をする。

 医師が駕籠で来てくれたとき、もう遅かった。庭の青葉の色が漂い入る臨終の枕もとに付き添っていたのは、近江守一人であった。
 静かな家の中の、いつもよりはるかに深く静かに感じられた部屋で、死んで行く美しい妻を見守っている老人の近江守一人であった。
 ずっと寝ていたのを、その朝いつもになく床の上に起きて髪を直し、薄く化粧までしたのは、何か予感の働いたものだったろうか? 口紅を付けた死顔は美しい。象牙のように肌色の細かかった顔も、古い人形の顔を見るように静かで、苦悶のあとなどは見受けられない。突然襲って来た死ではあったが、かねてから覚悟はあったようである。
 「よくしてくれた。かたじけなかった」
 いつもから口数の少なかった夫が、千万無量の心持を託して厳粛にこう言ったとき、最後に目を見開いて近江守の手を求めながら、世にも幸福そうに笑いかけながら、うつらうつらとなったのであった。


引用箇所に出てくる固有名詞、
お登勢も近江守も主要登場人物ではあるのですが
メインの筋書きは
長州藩禁門の変で暴発する直前の日々を
緊張感とともに描いたところにあるわけで

正直「その他大勢」のキャラクターの死を
ここまで書く必要はありません。

時世の流れについて桂小五郎が信念を述べるシーンとか、
鞍馬天狗の恋のお相手とお似合いかぽーな若侍が
鞍馬天狗に引き換え俺は、と
いかにも若者らしい自己嫌悪に陥るシーンとか、
−それを言うなら−
このブログエントリも
ほかにとりあげるべきネタには事欠かないはずなんですが。

作者はきっとこの作品の執筆時
死と向き合わざるをえないような何かが。
って勘ぐられたら不本意だろうことは
こういうエントリを上げる筆者はきっと私生活で何かが。
って勘ぐられたらあったまに来るよなー。
すごく思うので
そのあたりはバッサリ割愛しますけど

一介の“小説の登場人物”だった鞍馬天狗
名作「11.角兵衛獅子」において
作者の“パブリックな”思いを口にすることで、
作者の分身のような存在になったのだとするなら
本作は、ついに
作者の“プライベートな”心まで汲んだ行動を彼がとるに至り
名実ともに、鞍馬天狗大仏次郎
という等号が成立したターニングポイントといえるでしょう。

なにしろここまで赤裸々な作品は、シリーズ中、類を見ません。