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「星新一時代小説集 天の巻」にあっけにとられる。の巻

昭和40年代生まれの例に漏れず
星新一ショートショートの洗礼を私も小学生時代に受けました。
それはたとえば
空からおたまじゃくしが降ってきた、という
ニュースを聞いたとき、最初に思い出したのが
「おーい。でてこーい」という

ある日突然出来た深い底なしの穴に、生産することだけ考えていて、その後始末は誰も考えていなかった人間たちは、これ幸いとばかりに都会のゴミや工場の排水や放射性廃棄物など、物を生産することで発生した不用なものをどんどん捨てていく。[wikipediaから]

(1958年の)彼の作品だった、
という具合に−もう優に30年は作品に接していないのに−
ずいぶんカラダの深いところにまでしみこんでいると思われます。

ポプラ文庫から彼の時代小説アンソロジーが出ていることに
気づいて、そもそも時代小説書いてたんだ、へー。
というレベルで手にしたのですが
同時期に買った宇江佐真理の文庫新刊
「聞き屋与平―江戸夜咄草」
「雨を見たか―髪結い伊三次捕物余話」
と並行して読んだので
ますます星新一という特異な作家の
本芸でないジャンル・時代小説作品の
ヘンテコぷりに
30年前とは違う感銘を受けました。

時代小説の書き方。というモノが仮にあるなら
・季節を描きましょう
・江戸なら江戸、戦国なら戦国。その時代ならではの風物を作品に織り込もう
・時代考証を確実におこなった痕跡をあえて文中に残すのもいいでしょう
・物語の背景が過去であっても、本当に描くべきは“いま”なのです
云々。
そういう不文律が
作者と読者の間で共有されている、と思うのですが
さすが日本SF界永遠の巨匠、
上述したようなお約束にはまったく無頓着。
その結果として

サイエンス・フィクション
物語の舞台はナントカ星雲のカントカ星。
それがたまたま
私たちが知っている“時代小説の舞台”に似ていた
……ということ? と思わせるぐらい、
物語には
いわゆる“時代小説”らしからぬ空気が漂っています。

書きたいことそのものは
インスピレーションに端を発しているにせよ
ストーリーはあくまでも
ロジックの積み重ねで出来ている、
もうすぐ70近い私の母親の語彙を借りれば
「やっぱりアンタは理系だわー」
そんな感じ。
humaneなことはたしかにhumaneなんですけどねえ。
人間の本質「だけ」を凝縮して書いた、
一種シノプシスのようでもありました。

一方の「髪結い伊三次」は相変わらず
作者の(現代での)体験を
江戸時代に持って行ったのであろうことが
よくわかる、安定した芸風で
あ、そういえば
私もひそかに拳々服膺している、
テツゾーこと北斎老のありがたいオコトバby杉浦日向子
なセリフが1箇所、混ざってましたね。
最近そういう日記書いたばかりなので
苦笑してしまいましたが。

「寝ちまえ寝ちまえ、寝て起きりゃあ別の日だ」